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『implication』
ポスト・パフォーマンス・トーク
ボヴェ太郎[舞踊家・振付家]×志賀玲子[アイホール・プロデューサー

志賀:まず、作品のことから聴く方が良いかと思うのですが、今回どういうことをやろうとしたのか、という辺りからお伺いしていきたいと思います。

ボヴェ:チラシにも少しお書きしましたが、私は踊りを作って行く際に、インプロヴィゼーションという技法を用いています。自分の中から動きを構築して行くという形ではなくて、身体を取りまく空間の様々な要素を丁寧に作り上げていき、身体から動きを導いて行くという手法です。今回はその点をタイトルにも反映させたような形になります。

 

志賀:そうすると、今回のこの作品は、一番初めにアイホールという空間があって、そこをどういう風な空間構成にしようか、という辺りから考え初めていかれたのですか。

 

ボヴェ:そうですね。物理的な空間の座組みということもありますが、音や光も含めた様々な要素を、アイホールという場において、どう配置したら良いのかという事を、念頭に置きながら、構成していきました。アイホールは、様々な使い方が可能な、フラットなスペースですけれども、今回はあえてそこに、いわゆる額縁形のプロセミアム劇場を作って、その額縁から客席に向かって、舞台が張り出しているという配置を試してみました。それから、これは舞台美術の話になりますが、作品の最後に、舞台の背面と側面が発光して、空間が光で満たされて行くという演出を考えたのですが、その為の広さはなかなか普通の劇場空間では確保できないのですよ。オペラホール並の間口が、必要になります。舞台の配置に関してはそういう形で取り組んでみたのですけれども。

 

志賀:音楽というのはどの位の段階から要素として入ってくるのですか。空間、狭い意味での具体的な空間構成が出来上がった後に、という事なのでしょうか。

 

ボヴェ:作品によって異なりますが、今回は同時並行ですね。空間があってそれに合うように音楽を構成していくと言うよりは、様々な要素の可能性が行ったり来たりしながら相殺されて、今回はこういう形になりました。

志賀:ボヴェさんの踊りの特徴をもし一言で言おうとすると、「流麗な感じ」と言うか、滑らかになだらかに、途切れることなく進んで行くようなイメージがあるのですが、そういう「流麗なものへの志向」というのは、ご自身ではかなり意識していらっしゃるのですか。

 

ボヴェ:力の移行という意味では途切れないように意識していますね。インプロヴィゼーションという技法を取り入れた場合に、自分が意図的に動きをコントロールするということを、極力避けるわけです。身体を取りまく環境の変化に、いつでも身を委ねられる状態にしておく事が大切だと思っています。その為には身体は強張っている状態ではなくて、常に途切れることなく連なっている方が受容し易いと思います。それが、動きが流体的と言いますか、流れがあるように見えるのかもしれません。動きを止めたりもしますが、止めている時にも身体の中では常に、ゆらいでいる、ということはありますね。動きを止めたすぐ後に、何かが身体に来ても、すぐに共鳴するといいますか、呼応できるように、常に身体に「緩み」を持つようにしています。

 

志賀:ちょっと意地悪な質問かもしれませんが。環境との関係の中で、今言ったような、外的な変化に自分の身体が反応していく為には、強張った状態ではなくて、ゆらいでいる状態があるからこそ、敏感に反応できるという事、それは凄く納得出来る。しかし、現代アートの一つとしてダンスというものがあるとして、今の時代を考えると、逆に本当に固まってしまうとか、引き攣ってしまうとか、むしろそちらの方が、自然なのではないかとも思えるのですね。これは、私の今の時代に対する感覚ですけれども。そういう時代の中で、ボヴェさんがこういった、非常に流体的で破綻の無い踊りを作っていかれるというのが、今おっしゃったような、外的な刺激を身体がどう受け止められるかという、力学的な事だけではなくて、何かもう少し、思想的にというか、ご自分の哲学的に何か思っていらっしゃることがあるのかなと思って。あまりにも美しすぎるという批判を受けることは無いですか。

 

ボヴェ:多々ありますね(笑)。凄い、難しい質問。時代性ということですよね。

 

志賀:大文字の時代を語っていただく必要は無いと思うのですけれども、ボヴェさんにとって自分で構築した舞台空間ということだけが、多分環境では無いと思うのですね。身体の動きというものを考える時に、一日の普通に街で生活している身体がどういう経験をしているかという事が、当然この作品にも繋がっているという事を考えると、日常生活の中の身体が、それほど流体的な、滑らかでなだらかな、そういうものだけでは、暮らせていないと思うのですよ。ボヴェさんがどんな環境で生きているのかは分からないけれども。そういうような体験と、こういう作品の中で現われてくる身体との関係。何かその辺の話を聴いてみたいと思うのですが。

 

ボヴェ:そうですね。誤解を覚悟で言いますと、今の時代をそのまま舞台に上げたいという欲求が無い、と言うことですね。自分を取りまく生活環境であるとか、周りの人間をみていて、それをそのまま舞台に上げようと思えば、非常に強張ったものになるかもしれないし、あるいは脆弱な状態というものが、当然出てくると思います。そういうものを舞台に上げる事で、ものを考えていくという事も出来ると思いますが、それは非常に演劇的な側面だと思うのですね。同時代をどういう風に見つめるのかということは、つまり社会性ですよね。それは、非常に言語的な行為だと思うのですよ。勿論、そこにも身体性というものも含まれてきますが。そういった側面から作品を作ろうと思えば、当然同時代をダイレクトに反映させる形に、おのずからなると思います。

 しかし、私の場合はむしろ音楽に近いと思うのですよ。時代を反映するという形の音楽表現もありますが、同時に純粋に音の響きの可能性を追求するという音楽もありますよね。私は、そのアプローチに近い形で、身体をまなざしているのだと思います。しかし、当然そこにも同時代性は反映されます。ダンスは人間がもろに介在しているので、そこを避ける事は出来ないし、それを全て切って「純粋舞踊!」みたいな形は不自然であるし、不可能だと思うのですね。ただ、力点をどこに置くのかという事が問題であって、私はそういった形を志しているのだと思います。答えになっていますでしょうか。

 

志賀:空間の環境と自分の身体がどういう風に響き合うかという、そこの部分にむしろ力点をおいているという。

 

ボヴェ:自分に限らずですけれども、それは。別の言い方をすると、いわゆる情念のレベルでものを作るというか、情念を描くという事に、私はあまり関心が無いのですよ。しかし、踊りの中に観る人が情感を感じたりすることは否定しないし、素的な事だと思いますよ。私自身も踊っている中で、感情が生まれる瞬間もありますし、その事が動きに、良い形で反映されることもあります。生まれて来た感情は拒否しない。しかし、情念や感情を取り立てて、描きたくて踊っているわけでは無い。という感じですね。

 

志賀:自分の中から動きを汲み上げていくとか、情念みたいなものに、あまり興味が向かって行かないということが、ボヴェさんの踊りがストイックに感じる理由なのではないかと感じました。ややもすると、ソロのダンスで、これだけ美的に構築していく作品は、観ている方には、ナルシスティックに映る可能性が、往々にして凄く多いと思うのですが、ボヴェさんの作品を観ていて、いつもそこに行かないのが不思議なダンサーだなと思って観ているのですね。ナルシスティックな陶酔感みたいな所に、全然落ちていかない事が、物凄くストイックに感じるというか。それが、どの辺からくるのか興味があるのですが。

 

ボヴェ:例えとして正確かは分かりませんが、美人画を描く画家がいるとしますよね。西欧でも日本でも、男性の画家が女性を描く事が多いわけですが、その絵に画家が自分自身の内面を直接投影したくて、描いているということはあまり無いと思うのですよ。その視点に近いのかも知れませんね。踊っている時も、作品や自分の身体と、どれだけ距離を保てるかということを、凄く注意しながら踊っています。しかし、先ほど言われた、いわゆる流麗なものというのは、現実的にはほぼ不可能だと思うのですが、何かそこを志向するという事もあるのかもしれませんね。

 

志賀:今のコンテンポラリーダンスの流れって、いかに見たことの無い新奇な事をやるかという事。それから、薄っぺらい意味も含めて、「これが私のキャラクター!」というような所から踊りを作る傾向が凄く強いと思うし、そのことを人々が面白がっている部分もあると思うのですよね。良し悪しは置いておいて。そういうような昨今の傾向とは、ボヴェさんの作業は随分と違うことをやっている気がしていて、その辺はどんな感じに思っていらっしゃるのかという事を、少し聴きたいのですけれども。

 

ボヴェ:私が初作品を作ったのは16歳の頃でした。10代の当時というのは、志賀さんが今言われたような、いかに新奇なことを、と言いますか、ジェット・コースターのように目まぐるしく展開する作品を作っていました。ノイズが身体を浸食するような音や映像の中で踊ったり、水の中に入ったり。自分の身体を追い込む作品。あるいは観客に対して、思わせぶりな作品も作っていました。しかしそういった方法に対する関心は除々に失せていったと言いますか。奇抜さという視点から作品を作って行くのではなくて、「動きがどういう関係性から現出してくるのか」という点を丁寧に見ていきたい、という思いが強くなっていきました。

 “コンテンポラリーダンスの昨今の傾向”なるものが、どういう状況なのか私にはよく分かりませんが、ひとつ不思議に思っている事があります。「コンテンポラリーダンスは何でもありだ。皆それぞれにスタイルがあって良いのだ!」と、皆さんおっしゃるのですが、“独創性”と“新しさ”を尊ぶ、という姿勢を、無批判に信奉していらっしゃる方が多いように感じられます。しかし私は、独創性や新しさというものは、結果的に生まれてくる可能性の一要素であって、それが創作の理由や目的になってしまうのは、とても貧しい事だと感じています。私はそういった姿勢に、あまり興味がありません。新しいものを作る為に踊っている訳でも、自分を表現したいとか、自己の内面の表白を目指して踊っている訳でも無い。私にとって重要な事は何かというと、踊りの「質」に関わる問題だと思っています。

 優れた踊りというものは存在しますよね。それはコンテンポラリーダンスの中に見出される時もあれば、当然古典舞踊の中に見出される時もある。しかし、古典舞踊だからみんな良い、というわけではもちろん無くて、古典舞踊でも全く同じ振付なのにも関わらず、踊り手によってその「質」が全く違ってくる。私は、強度をもった質の高い踊りが現出する瞬間、その時いったい何がおきているのか、という事に強い関心があるのです。しかし、どういった時に踊りが強度をもって立ち顕れてくるのかを、見極める事は、本当に難しい事です。しかし、自分が踊っている時にも、納得出来る瞬間はまだ無いのですが、何か可能性が垣間見える瞬間が稀に訪れます。他人が踊っている姿を観ている時に立ち会うこともある。その点を、丁寧にまなざして行くということが、現時点での一番強い、関心事なのだと思います。

 

志賀:踊り終わった直後の人には、難しい質問でしたね(笑)。それでは、観客の皆さんから質問等ありましたらお受けしたいと思います。

質問1:空間が大事だということなのでお聴きしたいのですが、その空間というのは、アイホールは一応形としてこうありますが、イメージとして、どこ位まで伸びているのか。そして、その中でお客さんというのは、どういう風にイメージされているというか、捉えられているのか不思議だと思って、お聴きしたいです

 

ボヴェ:踊っている時の空間の把握は常に変化しています。照明の光の中にある場合もありますし、より意識として自分の身体の内に来る場合もある。広がっていくとアイホールという空間全体になる、あるいはそこを突き抜けていくかもしれない。非常に流動的に伸縮していますね。意識をして知覚できる範囲というものは常に変化しています。観客という事については、もう決定的な要素としてあります。観客の志向性といいますか、気配といったものは、動きにとても大きく反映されますね。

質問2:この作品の照明はどなたが決めたのか、それから音楽はどういう基準で選ばれたのでしょうか。

 

ボヴェ:照明に関しては、私と照明スタッフとの共同デザインになります。曲構成としては、冒頭と最後に近現代の音楽を持ってきて、中間部は後期バロック音楽を使いました。選曲に関して少しお話しますと、今回は西欧のクラシック音楽の文脈からピックアップしたのですが、いわゆるクラシック音楽としてよく演奏される音楽というのは、大体バッハの後ぐらい、主にベートーヴェンあたりから19世紀末にかけて作曲されたものが多いですよね。その時期の音楽というのは、作曲家個人の内面の表白というものを大切にしている場合が多いのですよ。そこにドラマがあって、感情の起伏というものがあるのですが、バロック音楽はそういった側面のプライオリティーは高くなくて、音の響きの可能性等を志向しているものが多いのですね。近・現代の音楽も、同様の可能性を志向しているものも多いですので、今回はそういった楽曲を選びました。

 明確な物語、あるいは感情の流れが構築されている音楽というのは、使用する際には非常に演劇的なアプローチが必要なのですよ。曲の物語に乗っかるのか、あるいは意図的に異化効果として突き放すのか。そのように言語的、あるいは感情的なアプローチをしなければいけないと思うのですよ。まあ、しなくても良いのかも知れませんが、凄く気になってしまいます。もちろん演劇的なアプローチもいろいろと魅力的な可能性はあると思いますが、先ほどもお話したように、この作品では別のアプローチを考えていましたので、このような選曲になりました。

質問3:この公演の中に他のダンサーが介入することになったら、また別の世界が生まれると思うのですが、他のダンサーと創作するということは、お考えになったりすることはありますか。

 

ボヴェ:考えます。非常によく考えます。けれども、ダンサーのメッソッドというものは、それぞれのアーティストによって全く違いますよね、古典は別ですが。そうなった時に、どういったアプローチで踊りに取り組んでいくかという事が、非常に重要になってきます。違うジャンルとして接触していくのか、あるいはメソッドを共有していくのか。いずれにしても、非常に難しい段階を踏む必要があると思うのです。バトルのように、セッションとして経験していくことは出来ますが、作品を作る際には、また別のアプローチが必要になってくると思います。私が模索している、「空間を知覚して変容してゆく身体」という方法を、別の身体に反映していくことが出来るかということに対して、強い関心はありますし、他のアーティストのメッソドを共有しながら創作に取り組むという方法にも、関心は強くあります。けれども、繰り返しになりますが、そこには段階が必要だと思っています。

質問4:言葉や言語に対してどんな風なお考えをお持ちなのか、もう少し聴かせて頂きたいです。

ボヴェ:言語という括りになると非常に大きいのですが・・・。舞台での創作をはじめた初期のころ、私は言葉や言語がもっている意味性といいますか、意味による浸食から逃れたいという思いが強くありました。そして、身体にその可能性があるのではないかと思って踊りをはじめたのですけれども、実は身体にも全く同じ問題があって、仕草という領域に限らず、無意識の内に習得した知覚にまつわる技法や、文化的な起源や影響等、言語に対して感じていた問題点と全く同じものがありました。言語や言葉というものは、別の側面から見れば、もっともっと膨大な難問があるわけですが、まあその点に関しては専門家がいらっしゃいますから(笑)。

 しかし、言語や言葉は人間の社会性以外の何ものでも無くて、そこをどうまなざしていくのかと言う事が、決定的なわけですから、志賀さんが先ほど言われた、同時代性というものは絶対的に不可欠だと思うのですね。しかし、踊りといういうものはそれだけでは無いのではないかという思いが、私には強くあります。勿論、同時代性の影響は多分に受ける。けれども、そこに留まらない何ものかがあるのではないかと思って、私は踊っています。

 

志賀:本日は長時間、ありがとうございました。

 

ボヴェ:ありがとうございました。

 

(2007年7月14日のポスト・パフォーマンス・トークより抜粋)

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