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『Texture Regained─記憶の肌理─』
ポスト・パフォーマンス・トーク
ボヴェ太郎[舞踊家・振付家]×細馬広道[滋賀県立大学教授]

 

細馬:今日は『失われた時を求めて』ということで、一体どうするんだろうと思って観たのですが、面白かったです。普通ダンスを踊る人って、もっとパキパキに短い文章であったり、単語がバシッとキーになっていて、その単語に沿って踊れば大丈夫、というものを選ばれると思うんです。でも今日の作品って、まず文章自体が、これどこに行く文章だろうって、かなり時間をかけないと分からない文章ですよね。踊っている踊りの振りが、言葉と一対一で対応しているというよりは、言葉が流れていく行き先と、どう寄り添ったり離れたりっていう、そういう踊りだったので、びっくりしました。

ボヴェ:プルーストの文章は、今おっしゃられたように、冒頭から細かな描写で始まり、どこへ広がって行くのか分からないまま、どんどん進行していきますよね。文章の途中で、最初に話されていたセンテンスが、そもそも何に掛かっていたのか、見失うような瞬間もしばしばあります。そんな文章が延々と1万ページ近くにも渡って続くのですから、読書体験としては、かなり過酷なものがありますよね(笑)。しかし、その止めどなく流れ来る言葉の洪水に、拮抗せずに身を預けてしまうと、言葉の海に漂うような不思議な感覚が訪れます。実はその感覚、私にとっては踊っている時の身体感覚に近いのですよ。

 私は自分の中から動きを構築してゆくというよりは、空間を構成して、その空間との関係性の中から動きを導いてゆく、という方法で踊っています。そこで大切な事は、明確に把握する以前の対象が持っている質感に対して、いかに自分の身体感覚を啓いていけるか、という点なのですが、プルーストの文章にもその事を強く感じています。もし、このプルーストの文章を、舞台上で音読したらどのような空間が立ち上がるのか、そしてそこからどのような踊りが生まれて来るのか、という思いから今回このような創作を試みてみました。今までとは違うの角度から、踊りが立ち上がって来るプロセスを、まなざす経験にもなるのではないか、という思いもありました。

 

細馬:僕らが何か物を思い出す時間って、「あっ!」って一瞬で思い出したって思っているけれども、その思い出しの時間って、結構長いんですよね。その長さの事も今日考えましたね。つまり、ある場所で、ある文章を読んでいる人が、パン!とある結論を言うと、踊りがぱっと対応するというのではなくて、思い出している時間の長さと踊りの長さが、勿論同時進行でなくてちょっとずれながら、じわじわとお互いに影響を及ぼしていくという瞬間がいくつかあったと思うんです。

 例えば、「星雲のような……」という事を渋谷さんが言った時。その一連の文章は凄い息の長い文章だったと思うんですけれども、そこで「星雲」という言葉が出てくる。「星雲」という言葉は凄くイメージを喚起する言葉ですね。普通だったら星雲をパッと踊りで表したらいいわけですよ。でも、後ろで踊っているボヴェさんは、星雲か何か分からない、ジワーッとした動きをされていて。僕は「ああ、あそこ凄くいいな」って思ったんです。

 つまり、文章の中で思い出しの時間がずうっと流れている時に、結論に向かって踊っていくのではなくて、思い出しの時間に沿いながら、何かある体の形がリアライズされていく過程が見えたような気がして、そこが凄く面白かったですね。

 

ボヴェ:今、とても重要なことをおっしゃって頂いたと思います。時間の軸というものが一つでは無くて、いろいろな方向に引き伸ばされていくような印象。舞台上で踊っている時、言葉はどんどん流れていくのですけれども、その中には身体に響いてくる、印象の強い単語やセンテンスがあります。ある言葉、例えば「そよぎ」でしたら、「そよぎ」という言葉が身体に広がっていくわけですが、その間にも次々と別の言葉がやって来ます。「そよぎ」の質感の中に別の質感が入り込んで来て、混ざり合ってまた新たな質感が生まれてくる。

 文章全体から立ちあがって来る“時間”や“質感”と、その中の短いセンテンスや単語によってもたらされる“時間”や“質感”。それから、舞台上のリニアな時間とは別に、やって来た言葉が身体の中の記憶を呼び覚ますことで、立ち上がって来る“時間”や“質感”もあります。それらが相互に影響し合いながら、いろいろな射程で身体にやって来ます。客席で観て下さっている方にも、響いてくる言葉はそれぞれに違うと思いますが、それぞれの身体の中に色々な“時間”や“質感”が広がっていくニュアンスを感じて頂けたら嬉しいですね。

 

細馬:それに関連して言うと、ボヴェさん手が広いなって思ったんです。大きいというか広い。何でそんなことに引っかかったかと言うと、僕ら「手」といった時に、手から先がそんなに割れてないんです。一個の手がいろいろな動きをするだけなんですが、ボヴェさんの踊りって、指が長いせいかな、パッと手を出された時に広がりを感じる。手というのは記号性が凄く高いですから、上に向けて開けば「器」になったり「花」になったりしちゃうんだけれども、そこから指が分かれて行くと、記号かな?と思った所からまた別の方向に行く。ボヴェさんの踊りを観ていると、一瞬記号に見える時があるんだけれども、それがまた割れていくんですよね。

 おそらく僕らが文章を読んでいる時の奇妙な体験というのも、そういうことなのかなと、今お話を伺っていて思いました。つまり一つの言葉の記号がパッと出てそこでイメージが生まれる。そして、どんどん文章を読んでいくと思いがけない事が、どんどん言われていく。こうだと思っていたらこうだったというような、様々なイメージを接いでいくのですけれども、文章って一次元のはずなのに全然一次元ではないんだ、というような感じが、ボヴェさんの身体と対応しているのかなと、思ったりしましたね。

 

ボヴェ:そうですね。今、記号性のお話をされましたけれども、やはり手と顔は、一番記号化されやすいですよね。私は、手と顔しか出ていない真っ黒な衣裳で踊っているので殊にそうだと思いますが(笑)。手の動きに関して申し上げますと、私は動きの起点を基本的には足の踏み込みと、その反作用の力の移行からとっています。床面に足をどう踏み入れるか、そこからどう上がって来るかという、力の移行が踊りになっていくのですが、最終的な力の行き先というのは、頭や胸などから抜けていくこともありますが、やはり指先から抜けていく割合が大きいのですよ。

 踊っている感覚としては、抜けた先、指先のさらに延長線上に、エネルギーが伸びて行く感じなのですね。ですから見る側には、指そのものの動きというよりは、進もうとしている力の方向性が感じられると言いますか。視覚的に見えるのは指先までですが、きっと広がっていこうとする力の方向性そのものを、指や腕と感じるのではないかと。それが、手が広いと感じられたという事なのかなと思いました。

 

細馬:言葉の遣い方が面白いですね。ボヴェさんは「足を入れる」そして「頭と手で抜く」と言う。その感じは面白いと思う。あたかも、今ここには見えないし、実態があるか分からないけれども、自分が割って入れるような空間があって。それは足から入れるものであって、足から入るのだけれどもそれが身体を通って、頭と手から抜くのか! そうか、足から入って抜けていく何かが一つのフレーズを作っていくのかなと。

 そう言えば、今日の朗読で、一つ一つの文章は長いんだけれども、一歩入れて頭や手から抜けるのがワンセンテンスという時があったかなと思いました。その次にセンテンスのムードが変わった時に、足の入り方が変わったり。必ずしもワンセンテンス一歩では無かったけれども、一歩踏み出して手と頭から抜けるまでがワンフレーズというような印象がありましたね。一歩一歩踏み出すごとに、木が一本一本その場その場に生えていく、そんな感じもしました。足の踏み出しがどんどん練り物のように、宿木のようにお互いに寄り添っていく。しかもタイムラグをはらみながら。

 渋谷さんとどのようなコラボレーションをしたのかという事も伺いたいのですけれども。二人の立ち位置とかって、どうやって決められたのですか。今日観ていて面白かったのは、この劇場自体、シンプルな箱ですけれども、渋谷さんとの位置関係をシンプルだけれどもいろいろ考えている。何かが生まれるような仕組みを幾つか作っていましたよね。

 

ボヴェ:彼女の立位置としては、最初はもう少し演劇的と言いますか、テクストなどを手に持たずに、一つの役どころのようなものを、作っても良いのではないか、とも思っていました。しかし、よりシンプルに言葉の質感そのものを投げかけてもらうような立位置から作品に関わって頂いた方が、よりストイックな舞台に仕上がるのではないかと思い、今回このような形になりました。

 

細馬:僕は、どちらかというと。もっとスタティックな、朗読者は朗読、踊る人は踊る人、みたいな舞台を想像していたので、あれでも僕には演劇的な感じがしましたよ。後ろに立ったりとか。本を読んでいる人、独白をしている人の後ろに誰かが立っているというのは、何と言うか、不思議でエロティックな感じもして。独白者の後ろにはごっついイメージが登場して、しかも本人には見えていないという(笑)。ホラー映画のような感じもして。面白かったです。

 それから、プルーストを読んでいる時って、文字を見ているから一人称で親密に読んでしまうんですよ。語り手の方に沿って。だけど、こうやってプルーストを呼んでいる人を観ると、急に二人称的、三人称的な気分が出てきて、そこも凄い面白かったですね。

 

ボヴェ:プルーストの文章は、“一人称の極み”という印象がありますよね。しかし、文章を舞台にのせることで、今おっしゃられたように、いろいろな視点から見えて来るものがありました。例えば、作品の後半で使ったテクストは、一人の人物の視点なのですが、イメージがいろいろな方向に変化していきますよね。寝ている女性を観ていると、そこに植物を見出すとか、昔の何ものかを想起させるとか。そういう言葉が来た時に、主人公の一人称の視点だけではなくて、逆に植物的な質感の中に自分がもっていかれる、という事もあります。“植物の視点から見る”では無いですが、まなざされている対象の視点から観ているような感覚、と言ったらよいのでしょうか。

 きっと私たちが文章を読んでいる時も、基本的には一人称で書かれている視点にそって読んでいるわけですが、印象の強い質感に出合った時には、結構違う方向に、視点や感覚がゆらいでいるのではないか、という思いもあります。舞台に言葉を上げる事で、その点に気がつける瞬間が訪れたら良いなと。

 

細馬:その感じはしましたよ。一人称で語られている質感の方が生き物めいてくる。ポニョですから!何でポニョって言い出すかというと。要するに波だと思ったら生き物だったという。観ていない人には絶対伝わっていないと思いますけれど(笑)。すいません。要は、僕らは自然現象だと思っているけれども、あるいは自然現象に起因する質感だと思っているものが、実際にボヴェさんという肉体を得てですね、何かになっていくわけですが、そこには精霊めいたというか、ちょっと不思議な感じが出ますね。

 プルーストを読んでいると、肉体以前の気配みたいなものを感じる事があると思うんです。まだ自分でもそれがどういうものなのかは出てこないんですが、人が踊り出すだけで圧倒的に違いますね。イメージが肉体になっていくというような。でも面白いのは、イメージが肉体になると言って、「はい、精霊登場!」、「ヤグルマソウ登場!」、というのとは全然違う事が起こっているのですよね。それが面白いなあ。

 

ボヴェ:今、気配という言葉が印象的だったのですけれども、私も踊っている時に、気配から動きが引き出されていくという事があるのですよ。言葉の中にいろいろな気配がありますよね。それらが、身体の中に様々な方向から響いて来ます。それから、今日は無音でしたので特に強かったのですが、お客様の気配というものも凄く強く感じられるのですよ。物音を立てずに、シーンとなった瞬間の、静寂の気配。あるいは、客席の片隅からモゾモゾと、何かの志向を感じるとか(笑)。

 そういった、空間に移ろう様々な気配と、言葉から想起させられる気配。気配と気配が響き合う波のまにまに、身体がふと立ちすくんだ時に生まれてくるもの。色々な気配が身体の中で響き合う時に、ダンスは生まれて来るのだと思います。

 

小倉[アイホール・ディレクター]:興味深いお話が続いておりますが、この辺りで、お客様からの質問を伺ってみたいと思います。

 

質問1:『失われた時を求めて』以外の文芸作品で、他にこれからテーマにしようと思う作品があれば教えて下さい。

 

ボヴェ:以前、クロード・シモンというヌーヴォーロマンの作家の小説に取り組んだ事があります。彼の文章もプルースト同様、2ページ後にようやく句点が来るような、ワンセンテンスがとても長い文章でした。接写のような微細な描写から始まり、読んでいくうちにやっとそれが、何なのかが分かってくるような文章なのですね。そのように、言葉を重ねていくことで、読み手の感覚が宙づりにされるような文体の文芸作品にも、また挑戦してみたいという思いもありますが、逆に言葉をどんどん削いでいった文章。詩であるとか、あるいは極端な話ですと和歌や俳句のような、梳いて削いで簡素化していった言葉から想起される動き。何かそういう方向性のものも試してみたい、という思いもあります。

 

細馬:日本語のものも観てみたいですね。翻訳の文体というのは独特の流れがあって、日本語でもともと書かれたものが持っている流れと、ちょっと違うものがあるような感じがしていて。それはどうなるのだろうなと。ちょっと生々しいかもしれませんが。

 

ボヴェ:実はですね、今回プルーストの文章に決める前に、テクストでやってみたいという事は決まっていて。さて、どんな文章が良いのかしら、と言うことでいろいろな文章を試してみたのですが、その中で一番しっくりいったのが、「春はあけぼの・・・」。『枕草子』でやったら凄く良い感じだったのですよ(笑)。そこで、風景の描写がしっくりいくのだという事を発見したのですけれども。例えば、「春はあけぼの やうやう白くなりゆく 山際 少しあかりて 紫立ちたる雲の細くたなびきたる・・・」、ワンセンテンスごとに視点がどんどん変わってゆきますよね。「夏は夜 月のころはさらなり 闇もなほ・・・」月が出て、闇になり、このあと蛍が一匹ゆらめいてくる、そして沢辺に無数に飛び交う様になる。短いセンテンスごとに、視点がどんどん変化してゆくのですよ。上空にスッと広がったり川面に下りたり、闇が訪れたり。それが凄く面白いのですよね。

 プルーストの場合は一つの視点を、これでもかと言わんばかりに、極限まで突き詰めて広がってゆく感じがありますが、『枕草子』は、すっと情景が立ち上がって、霧のように散じて、また別の質感が現れてゆく。しかも、前のセンテンスの質感の余情の上に、新しい質感が立ち上がって来るので、重層的で不思議なニュアンスが生まれます。『枕草子』をやるかは分かりませんけれども(笑)。

 

細馬:面白いですね。「やうやう白くなりゆく山際」というのが一つのフレーズなんだけど、その情景がもっている空間性とは別に、「ヨ・ウ・ヨ・ウ・シ・ロ・ク、ナ・リ・ユ・ク・ヤ・マ・ギ・ワ」という言葉の音がもっている長さが結構長い。「ム・ラ・サ・キ・ダ・チ・タ・ル・ク・モ・ノ・ホ・ソ・ク・タ・ナ・ビ・キ・タ・ル」結構ダーンと、長くいきますよね。その間に、どこから足が入ってどこに抜けていくのか。楽しみですね。

ボヴェ日本語の、言葉を発話する時の響き。古典物などは特にそうですが、発話して初めてその質感の魅力が感じられますよね。逆にダンスとの関係で言えば、圧倒的に身体が絡め取られてしまう危険はあるのですが、面白いですよね。

 

質問2:音楽で踊るのと、言葉でもって踊るのと、根本的に踊り方って違うのでしょうか。

 

ボヴェ:基本的なアプローチの仕方は同じなのですけれども、身体の知覚という側面からお話すると、言葉は言語として一度脳に入って処理される、という段階が加わりますね。言葉を聞いた時、二つの要素が身体に入って来ます。一つは発話された言葉の、声そのものが持っている質感、響き方とかテクスチュアですね。それは、ダイレクトに身体にパッと来るので、音楽で踊る時の状態に近いと思います。と同時に、言語といいますか意味としての言葉は、まず脳に入って、そこから具体的な形なり質感に変換されたイメージを身体が知覚する。

 それらの要素が両方同時に入って来るのですが、身体が知覚するプロセスにラグタイムと言いますか、時間のずれみたいなものがあるのですよ。そこが、音楽で踊る場合と少し違う点ですね。言葉で踊る場合は、より時間が重層的になっていく感覚があります。踊っている身体感覚としては。

 

細馬:歌で踊られた事はありますか。

 

ボヴェ:歌は以前、西ジャワの古典歌曲と躍らせて頂いたことがあります。歌詞の大意は教えて頂きましたが、ほぼ音楽として踊りました。インドネシアでは人間国宝級の第一人者の方だったのですが、彼女でも「古典曲の歌詞の内容は、分からない所も多い」と仰っていましたから、日本に住む私に分かるはずも無く。分かる歌詞だと大分違うと思いますが。

 

細馬:歌にもよりますよね。能の謡のようなものと、最近のメロディーがガッシリとある歌では、大分違うでしょうけれども。歌物も面白そうですね。あまり音を沢山入れると、訳が分からなくなりそうですが。

 

ボヴェ:実は今まであえて、歌物を極力避けて来たのですよ。今回、言葉のみの世界から生まれて来る可能性を探ってみようという思いで、プルーストに挑戦してみたのですが、言葉の意味もさることながら、声の響きが身体に及ぼす力も、想像以上に大きかったという発見がありました。今後は歌にもチェレンジしてみたいですね。

 

質問3:今日観ていて、ボヴェさんの動きが美しいなと思うのと同時に、渋谷さんの声も綺麗だなって同時に感じていて、声の質感が良いなと思っていると、言葉の意味が後から響いて来て、そこにボヴェさんの動きが重なっていってというのが、重層的で良かったなと思いました。

 ダンスでも音楽でも最初から振付が決まっていて公演当日はその通りにやるというのと、本当に即興的にやるというのとあると思うのですけれども、ボヴェさんのダンスというのは、先ほど気配とか即興ということをおっしゃっていたので、その場その場でかなり違ってくるものなのか、ある程度頭の中で考えていることを実現されているのか、どちらなのでしょうか。

 

ボヴェ:姿勢としてはその場その場で生まれてくるもの、ということになりますね。しかし、コンポジション(構成)と、インプロヴィゼーション(即興)との関係はとても複雑で、完全な即興というものも、完全な振付というものも、私は無いと思っています。

 完全な即興といって踊られる人もいますが、踊る日付を決めて、場所を決めて、そして誰かに観に来て下さいと案内をする。実はもうそこから、構成・振付が始まっているわけです。また、振付というものも、踊る空間や踊り手のその日のコンディションによってその質感が当然変わってくる。そういう意味で、コンポジションとインプロヴィゼーションというのは二項対立のものではなくて、切っても切り離せない、どちらもそれぞれの要素に支えられているものだと考えています。

 私は、空間を構成して光を構成して言葉を構成していくことによって、導き出される動きの質感の可能性を模索しているのですが、ある程度、稽古を重ねていくうちに明確化されていく側面もあるのですね。公演ごとに毎回踊りの質感は微細に変化します。しかし、ある文章のセンテンスに呼応して身体から生まれてくる動きというのは、軌道としては近いものが生まれて来ます。ですから、今日の作品を別の上演日に観て「今日の

ボヴェは、床にバタンッ!と倒れて激しく叫びながら、のたうち回って悶絶していたよ!」ということにはならないですね(笑)。

 構成するという事と、即興の要素は繊細に関係していて、その関係を見極めることはとても難しいことなのですが、そのせめぎ合いの中でダンスは成り立っているのではないかと、私は思っています。

 

質問4:渋谷さんという女優さんを知らなくて、こんな女優さんがいたのかと思って、とてもびっくりしました。渋谷さんをどこで見つけてこられたのかということと、それから、もしかして別に渋谷さんでなくても良かったのか、あるいは特に渋谷さんでなければいけない理由があったのか、聴いてみたいのですが。

 

ボヴェ:私は、彼女がプロフェッショナルになる前から、彼女の舞台を観ていたのですが、実際に一緒にこういう形で舞台に立つというのは、今回がはじめてです。渋谷さんのもっている声の質感であるとか、空間への立ち方というものが凄く面白いな、という思いがあってお誘いしました。作品を一から作るということは、とても時間がかかります。信頼関係を築いて、ある程度の時間を共有しながらものを作っていく事が前提になるのですね。それで、「時間をかけてじっくりと作りたいのですが、どうでしょう」と、彼女にお話したところ。「はい」という言葉を頂いたので、今回創作を共にしたという流れです。

 

細馬:びっくりしたのは、プルーストって凄い息の長い文章って言われていますけれども、朗読する人には凄く難しい文章だと思うんですよね。まず、ワンセンテンスを一息で言うことは無理だから、どこかで息を継がないといけないし、切らないといけないけれども、それを切った時に、「あっ、もう終わっちゃった」という感じをもたらしたら駄目で、しかもそこにはリズムがある。一文の中に構成されている微細なクレッシェンドとかディミヌエンドとか、言葉を切るときに、今どちらの方向に言葉が進んでいるというようなことを、イントネーションで微調整していかないと、聴いている方は、その文章のロジックが追えないんですね。だから、凄い何回も稽古なさったんでしょうけれども、あんな文章よくあれだけ、ロジックが分かるように読まれるなって。僕は凄くびっくりしました。

 

ボヴェ:文章を選ぶ時、まずは雰囲気で良いなと思ったものを、じゃあこれでやってみようと、選ぶのですけれども、実際に読み込んでみると、この単語はいったいどこにかかっているのかと、混乱するくらいプルーストの文章は分かり難いのですよ。舞台で初めて聴いた人に、全てのロジックが伝わる必要は無いのですが、言う側としては全部整理されていないと、成り立ちませんので、そこは凄く時間をかけて、「これはどうなっているのだろうね」という話を繰り返しながら、いろいろと考えていきましたね。

 

細馬:さっき気配という話が出たけれども、気配で一つ重要な事は、言葉の「音」だと思うのですよ。例えば「矢車草が・・・」と言った時に、そこで単独で切れてしまうのか、それともそこから先、1フレーズに何かを投げかけているのか、あるいは3フレーズ、4フレーズ、もっと長い何かがこれから展開していくかということは、もちろん後で読めば分かるんだけれども、舞台で観ている時は、「矢車草が・・・」と言う時のイントネーションにかかってくると思うんですよ。「まだあるよ!」、「随分先までこの言葉はかかってくるよ!」、ということはイントネーションで決まってしまうんですよね。そういう事も凄い今日は、ああ言い方で随分出きるものなのだなあと考えました。

 

ボヴェ:戯曲のように、もともと発話する為に書かれている文章では無いので、やはりそこは大変だったのではないかなと思いますね。私は、「いや、それでは全然伝わらないよ」みたいな事を人事のように言っていましたけれども、読む方は本当に大変だったのではないかと。

 

小倉[アイホール・ディレクター]:今日は客席に渋谷さんもいらっしゃるので、少しだけお聴きしましょうか。今回のボヴェさんとの共同作業で、何か一言ありますか。今、プルーストを読むのは難しかったのではないか、というお話もありましたが。

 

渋谷:本日は、ありがとうございます。こっそり聴いていただけなのですが……。プルーストの文章は本当に難解で、なかなか読むのは難しかったのですけれども、彼と一緒に、「これはどういうシーンなんだろうね」と具体的に二人で、情景はこんなだね、こんなだね、と言いながら実際にやっていく中で、私もやり易くなっていきました。

 例えば、冒頭のシーンで、「そとでは、物がみな、月光を乱すまいとして、無言の注意のなかに身を凝らしているように見えた・・・」という文章があったとしたら、その“物”っていったいどんな物なのだろうね、という話をしてみたり。どんな物が具体的にあって、それらが月光に照らされていて、青白い月光の静寂を乱すまいとして、無言の注意の中にじっと身を凝らしているのかね、とか。プルーストの文章は本当に難しいのですけれども、そういう作業を繰り返すことで、だんだん自分の中に落ちていきました。

 それから、彼は私の言葉を受けて動きが生まれて来るという話を、先ほどしていましたけど、私は私で、文章を読みながら、動いている彼を見ていて、先ほどの月光のシーンだと、月光を乱すまいとして物がじっとしている、その言葉を受けて彼が踊っている身体の中に、何かどうしても動かないではいられなかったものが、動きのどこかにハッと見えて、「どうしても動かないではいられなかったもの、マロニエの葉の繁みのようなものが動いていた……」と次の文章が引き出されていくというような。彼の動きから、また私の言葉が生まれて来るというような感じがして。そういう感覚は、普段舞台で相手役と芝居をするのとは、全然違ったものだったので、とっても面白かったです。

 

小倉[アイホール・ディレクター]:どうもありがとうございました。そうしましたら、時間も参りましたので、これでトークの方を終わらせて頂きたいと思います。

 

ボヴェ・細馬:ありがとうございました。

 

(2008年10月11日 ポスト・パフォーマンス・トークより抜粋・編集)

細馬宏通[滋賀県立大学人間文化学部教授]

京都大学大学院理学研究科博士課程修了。(理学博士:動物学)

ジェスチャー分析、会話分析、視聴覚文化研究などにたずさわる。

主な著書に『絵はがきの時代』(青土社)、『浅草十二階』(青土社)、

『絵はがきのなかの彦根』(サンライズ出版)など。

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