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CONATUS -Dialogue-

ボヴェ太郎舞踊公演『CONATUS』(2021 / アイホール)。公演に先がけて行いました、音楽家・原摩利彦さんとボヴェによる対談となります。よろしければ是非ご覧下さいませ。



『CONATUS』をめぐるダイアローグ  原 摩利彦(音楽家)×ボヴェ太郎(舞踊家・振付家)

-「空間」について-


ボヴェ 本日はどうぞ宜しくお願いいたします。

 お願いいたします。

ボヴェ 原さんと初めてご一緒したのは、2009年に水上ステージで上演しました『post festum』(バレエ・リュス100周年記念展・関連企画)でしたね。以来、野外や歴史的建造物における公演を中心に、様々な空間に音を添えていただいてまいりました。ありがとうございます。

 こちらこそ、ありがとうございます。

ボヴェ これまで、美術館のエントランスや窓外の公園を望む展示室、室町時代に建てられたお寺の本堂や、江戸時代の町屋の2階から見下ろす日本庭園、あるいは明治時代に建てられた壮麗な洋風建築、海を背景とした大パノラマの現代建築など、様々な空間で創作を共にしてまいりましたね。


※2013年に「枕草子」を題材とした作品を上演した際にも、原さんと対談を行いました。過去の公演につきましてはそちらで詳しく語っておりますので、もしよろしければ合わせてご覧くださいませ。


ボヴェ 近年では京都文化博物館で『百代の過客』という作品を上演しましたが、その際にはピアノを弾いていただきました。天井の高い、長い残響が魅力的な空間で、ちょうど夕暮れの時刻に合わせて、自然光を取り入れ、照明も重ねつつ、空間が収斂してゆくような作品になりましたね。

 ボヴェさんの劇場以外、あるいは野外専門の作曲家としてやってきました笑。そして今回、一番最初の公演から12年以上が経って、初めて劇場でご一緒するということになりましたね。

ボヴェ 確かにそうですね。しかし、にも関わらず笑。今回もですね、劇場の後ろに普段は閉ざされている素敵な搬入口があるのですが、そちらを開け放って大きな窓のように見立て、街の営みを借景とした、半野外的な趣の舞台のしつらえに、挑戦してみようと思っているのですね。

 いいですね。楽しみですね。

ボヴェ 私は創作をする際にはいつも、まず空間をベースに取り組んでゆくスタンスなのですが、毎回、会場となる空間の魅力がより深く感じられるにはどうしたら良いか、という視点を大切にしています。どのような角度からお客様に見ていただいたら良いのか、私はどの位置に佇んだら良いのか、光や音をどのように添えたら良いのか。庭を作庭してゆくような心持ちで、場をしつらえてゆくのですが、原さんにも、その時々の空間の特性を踏まえた音を、いつも添えていただいておりますね。

 こちらも、芸風と言いますか、作風としては、いわゆる自然の音とか環境の音を取り入れる手法、フィールド・レコーディングと言いますけど。そういう音を楽曲に取り入れたり、あるいは演奏する時に一緒に鳴らしたりもするのですが、それは閉じた空間に外の世界を持ってくるという、一つの方法でもあるのですけれども、逆に、もとから音のあるところに、こっちが出向いて行って、別の音を添えるというか置いて、全体の音の風景を作る、ということもあります。そういうスタンスでやっているので、搬入口を開けて街の音が入ってくる中でするというのは、何というか、とても好きなシチュエーションではありますね。

ボヴェ 今回は実際に、夕暮れの中、歩いている人の姿ですとか、自転車が通過したり、ちょうど日没時ですので西日が微かにかすめてきたり、木々がそよ風に揺れたり、そういう現実の日常も含めた情景が、絵のように、あるいは映画のワンシーンのように背景に見える中で、私が佇み、原さんが音を添え、風景として響き合う。そのような舞台になりそうですね。

-「コナトゥス」について-


 楽しみですね。今回は前作から見ると4年ぶりなんですが、ボヴェさん『CONATUS』(コナトゥス)というタイトルをつけたのですが、そこは何か4年の間の心境の変化というようなものはあるのですか。

ボヴェ 『CONATUS』(コナトゥス)などというご大層なタイトルをつけてしまったのですが笑。コナトゥスという言葉は、今から2500年以上前の古代ギリシアの時代まで遡ることが出来るような、随分と古い言葉のようです。「物が存在を維持しようとする力」、あるいは「慣性の法則」にも通じるようなニュアンスとして、昔から使われていたようですね。今回は17世紀の哲学者スピノザさんにおけるコナトゥスの捉え方に着目しようと思ったのですが、スピノザさんも物質全般に対する意味合いも含みつつ、生物における「存在を維持しようとする力」、「自己保存力」という側面からコナトゥスを捉えているようなのですね。現代医学で言うところの「恒常性維持」に近いと言われていますね。恒常性維持というのは、例えば人間は、体温が20度以下でも45度以上でも色々な臓器を維持することが出来ないそうですし、あるいはコロナ禍でピックアップされましたが、酸素飽和度が90を下回ると危ないとか、血糖値は高すぎても低すぎてもいけない、などと言われますよね。そうならないように、生命は常に一定の状態を保とうとする力を自ら生み出しながら存在を維持している。その力のことをコナトゥスと呼ぶのですが、スピノザさんは、個体がそれぞれに持っているコナトゥスは、それぞれ違うということに着目するのですね。分かりやすい例として「毒」という概念を上げているのですが、現代の我々にはアレルギーを例に考えるとしっくりくると思います。例えば多くの人にとって、パンは命を維持する大切な栄養源になりますが、小麦アレルギーの人にとっては、同じパンが個体のコナトゥスを破壊し、生命の危機をもたらす危険な毒物となりうる。これは極端な例ですが、スピノザは個体によって、それぞれのコナトゥスの力が発揮される在り方は皆違うので、各々のコナトゥスの特性を把握し、それに従うことの大切さを強調しているのですね。

 しかも、それぞれが完全であって不完全でないという。スピノザの言った時代と現代とでは大分感覚も違うので、今自分が考えようとしているのは、この時代の感覚で捉えようとしていて間違っているのかも知れないですけれども。それぞれの個性というものを尊重して、それぞれが完成していて不完全ではないというのは、もの凄く現代的な感覚と繋がっていると思いました。さらに何というのでしょう、やっぱり無視出来ない、去年から世界中で蔓延している新型コロナウィルスによって、行動が制限されたりとかする中で、食べる、寝るとか以外の、文化的なことも含めて、「いかに生きるか」ということが物凄くテーマなので、ボヴェさんからコナトゥスと聞いて、もちろんコナトゥスのことは知っていましたけれども、そんなに詳しくなくて、ちゃんと読んで少しかじった程度ですが、とっても今発表する作品のタイトルとしては、しっくりくるなと僕は思いました。

-「自由」について-

ボヴェ ありがとうございます。スピノザはコナトゥスに従って生きることの大切さを主張していますが、そのコナトゥスとも深く関連する、スピノザの扱う重要なテーマに「自由」、「自由に生きるとはどういうことか」という提議があります。自由というと一般的には、自分の意志で色々な選択肢の中から自発的に選択できること、可処分権のようなものとして捉えられていると思うのですが、スピノザさんは、それは自由とは呼べないと考えているのですね。スピノザさんはそもそも「自由な意志」を認めない。例えば、自分が何らかの行為をするときを考えた場合、スピノザさんは行為を、身体の膨大な記憶や、意識外の相互作用、環境の影響も含めた無数の原因が複雑に響きあい、重なりあった結果の現れとして捉えていて、人はその行為に至った原因を全て把握することなど到底出来ないと考えます。にも関わらず、それを意志による選択だと捉えることは、原因と目的を混同した単なる勘違いだと、剣もほろろに、ぷんぷんしています笑。自由意志と目的原因という有害な幻想に囚われてはいけないと、鋭すぎるお言葉で冷徹に論証されておられるのですね笑。我々が意志と考えているものが生じる際にも、原因があるはずなのに、それを人は認識することが出来ないため、自発的に意志が生じたと誤認しているだけだと。確かに考えてみれば我々のほとんどの行為は、息をすることなども含めて、意志を介在させないものが大半ですし、意識と意志の混同を徹底して避けて捉えるスピノザさんの視点は、はっとさせられます。では、自由な意志による選択を認めないスピノザさんは、どのような時に人は自由な状態にあると考えているのか。スピノザさんは、各々の個体が自らのコナトゥスを把握し、その特性を踏まえたそれぞれの様式に従って自らの力を十分に発揮できた時、人は自由である、と言うのですね。

 スピノザの考えというのは現代的だと言いましたけれども、現代の自由であるが故の苦しみというか、その自由というのは今一般に使われている自由ということですが、少し解放してくれると思うんです。自分が何かを選択出来ないから不自由だと思ったり、欲求不満なのだと思ってしまいがちですが、スピノザは、選択できる自由を与えることで欲求を満たし、解消するのではなくて、何か別の角度から見るという、考え方を与えてくれるので、何と言いますか、すごく良いですよね。だからボヴェさんに教えてもらって幾つか本を読んで、何て面白いんだ!と思いました。実は大学時代に哲学の授業でスピノザが出てきたのですけれども、その時は本当に全く分からなくて笑。全く分からないが故に記憶がほぼ無いんですよ。なのに今回、まあ本とか、解説によるのかも知れないですけれども、あるいは自分が20年くらい経って多少大人になった、ということもあるのかも知れないですけど、何かすっと入って来たところはありますね。

ボヴェ 私も同じような経験があります。まだうら若きお年ごろに、自らの存在のおののきを慰めるべく、いろいろな本を読んでいたのですが(笑)、その際「スピノザ最高〜!」と、スピノザ愛を熱く語る先人たちの文章に触れる中で、興味を持ったのですね。例えば、古くはニーチェさんや、現代だとドゥルーズやフーコー先生も、スピノザ、スピノザとのたまっている。知の巨人達がいろいろな立場からこぞって言及するスピノザとは一体何者なのかしらと、期待に胸躍らせて主著『エチカ』を開いてみたのですが、冒頭から「定義一 自己原因とは、その本質が存在を含むもの、あるいはその本性が存在するとしか考えられないもの、と解する。」・・・ちょっと何言ってるか分かんないんですけど・・・と笑。スピノザ節に全くついてゆけず、一瞬で挫折しました笑。

 まあ、難しいですよね笑。


ボヴェ 本当に難しいですよね。スピノザ思想の要諦「神すなわち自然」。その基盤となる自己原因についての冒頭の定義なのですが、無防備に挑んでも玉砕必須ですよね笑。私も後年、様々な解説書などを参考に、行きつ戻りつしながら、何となく・・・笑。スピノザは全てに原因はあり、超越的なものは存在しえないとする。そして、これはもの凄い逆転の発想なのですが、自己自身を原因とするものは神だけであり、人も猫も石ころも台風も、現に存在している物や現象(のみならず!)意識や概念も、全ては唯一の実体である神の様態(姿を変えた状態)であるとする。いわば究極の一元論とも言えるスピノザの思想は、後にアインシュタインが「私はスピノザの言う神は信じる」と言ったように、ほとんど理論物理学における自然法則のようでもありますよね。(神が世界を造ったのではなく、世界は神そのもの、という認識でしょうか)。しかしそれは、当時の人々が信仰していた宗教的な基本認識、すなわち人格を持った人のような神が目的を持って世界を創造し、世界の外側から人々の行いを罰したり赦したりするという、キリスト教をはじめとするセム系の啓示宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)における、敬虔と服従を要請する存在としての神、とはかけ離れたものであり、到底受け入れられるものでは無かったようですね。出版と同時にキリスト教会から「全宗教を侮辱する前代未聞の悪質かつ冒涜的な書物」と罵られ即座に禁書となり、さらにはスピノザ思想との親和性を指摘されることを恐れた(当時最もリベラルであった)デカルト派からも激しい攻撃にさらされ、厄介な「異物」として以降長らく哲学の表舞台からも排斥されることになる。しかし、自由意思や罪に依存しないスピノザの倫理思想は、あらゆる陣営から攻撃を受けながらも密かに受け継がれ、数世紀を経て再び注目されるようになってきた、と。教科書的な流れを申し述べますと笑。


 笑。


-「形」と「力」-


ボヴェ 盛大に脱線してしまいましたね笑。スピノザの思想は本当に独特で、難しいのですが、私は色々な解説書などの力も借りながらゆっくりチャレンジする中で、深く心に響くものを感じたのですね。スピノザは、物の本質を「形(形相)」ではなく「力(力能)」に求めていると思うのですが、その視点は私にとって、とてもしっくりとくるのですね。形というのは見た目、フォルムですが、「形」をベースに物を捉えようとすると、どうしても規範となる「あるべき姿」という概念が先行してくる。そして、その「あるべき姿」に比べてどの程度合致しているか否か、という捉え方を呼び込む。しかしスピノザは、自然界に現に存在しているものは、全て完全かつ完璧なのであり、何かが欠けているとか不完全だと感じるのは、単なる偏見に過ぎないと、繰り返し主張しています。スピノザは、それぞれの個体が持っている、存在を維持しようとする力そのものが物の本質だと捉えていて、その力の度合いと移行を通して、世界を把握しようとしているように思うのですね。私の舞の在り方に重ねてみますと、私は既存のメソッドに従って振り付けて、理想のフォルムを求めて動くということよりも、力の移行、どのように空間からの力を受け止めて、身体がどのように変化してゆくか、ということに感心がありましたので、その辺も含めて、スピノザさんの言うことがとてもしっくりとくるのですね。

 なるほど。

ボヴェ 実はそのことを改めて再認識した出来事が、この夏にありました。パラリンピックの競泳を見ていた時に感じたことなのですが、選手の皆さんは、それぞれに身体の状態が違うわけです。両腕が無い方もいれば片足の方もいる。そうすると、一番力が発揮できる泳ぐフォームは当然それぞれに違ってくる。泳ぎ方が全く違うわけです。自分の身体の状態に即して、その力がもっとも発揮できる泳法のスタイルを皆さん独自に探究・確立されていて、画面越しにも鮮やかな違いが伝わってきました。それぞれにとって力が発揮できる在り方はそれぞれに違う。実は同じ事が全ての人においても言えると思うのですよね。自発的に選択できるから人は自由なのではなく、その時々の状態において自分の力が一番伸びやかに豊かに発揮できた時、人は「自由」なのだ、というスピノザの言葉は本当に素敵ですよね。いつもとはいきませんが、私も舞っている時に、深い自由のようなものを感じられる時があるのですね。それをスピノザが言語化してくれたようで、読んでいて凄く、ああ良いなと感じましたね。

 特にボヴェさんのスタイルは独自のスタイルと言われていますね。それが内的なものから湧き出るというか、ボヴェさんの身体の中の重心の動かしかたと空間との関係、空間の影響を受けながら生まれる中から、自由な舞が出来るのかなと思いました。


-「触発による変状」-


ボヴェ なかなか自由な舞に至ることは出来ないのですが、そうあれたら良いな、とは思いますね笑。原さんの仰られた「内的なものから湧き出る」という側面はとても重要だと思うのですが、同時に私は、内的に閉じている状態ではなくて、空間や他者との関係性の中から舞が立ち上がってくるというプロセスをとても大切にしています。その事とも関連するのですが、コナトゥスと共に、スピノザ哲学のもう一つの重要な概念に「アフェクティオ」(変状する)というものがあります。ドゥルーズによるスピノザ解釈では「触発による変状」と、さらに難解な表現になっておりますが笑。個体は自らのコナトゥスにしたがって存在を維持しつつ、自らを取り巻く環境、他者からの絶えざる触発を受けて変状し続けるという。それは、空間からの触発を受けて変状してゆくという、私の舞のスタンスそのもののようにも感じられ、深い共感を覚えました。

 正にボヴェさんの舞そのものですね。

ボヴェ そうなのですよ。触発を受けて力が変化してゆく、変状して新たな動きが生まれて来るという、そのプロセスそのものを私は大切にしたいなと思うのですね。同じ触発を受けたとしても、どのように変状してゆくかは、個体おのおのによって違いますし、同じ人であっても、それまでの経験の蓄積の度合いや年齢によっても当然違ってくる。物理的な衰えによって知覚のプロセスが変わってくることもあるかも知れないですし、あるいは逆に、例えば視覚が失われ、目が見えなくなった場合、それを補うように、聴覚や物の気配を察する触覚が、それまでよりも、より鋭敏に研ぎ澄まされてゆくかも知れない。今のは極端な例かも知れませんが、同じような事は、私達の身体(精神も含めて)では常に起こっていて、自らのコナトゥスに従って存在を維持しつつ、空間や他者からの絶えざる触発を受けながら微細に変状し、リバランスし続けながら、その時その時の状況に応じて、自らの存在のより豊かな広がりが感じられる在り方を求めて変化してゆくのかなと。そしてそれが実現した時、人は深い喜びを感じ、スピノザの言う自由な状態に至るのかなと思うのですよね。

 良いですね。僕はボヴェさんの舞台音楽を手がける前からボヴェさんの舞台を観て来たので、15年観て来てますけど、スピノザの言葉がこんなにピッタリとはびっくりしますね。もちろんボヴェさんは前から感じられていたことだと思うのですが、外から第三者がボヴェさんの舞を観る時にスピノザの言葉を重ねると物凄くしっくり来ますね。

ボヴェ 凄い救われますよね、スピノザの言葉は笑。

 そうだと思います。僕の場合もクラシックのバックグラウンドがあるわけでもなく、バリバリの電子音楽でもなく、自分の出自とかで少し悩んだ時期もありました。でも自分が持っているものというか、自分が持っているのではなかろうかと思うもので頑張ってきたのですけど、そういう意味では、励みになる言葉ですね笑。

ボヴェ 先ほど、原さんも言われていましたが、否定的なものはそもそも存在できず、現に存在しているものは全て完全かつ完璧だというスピノザの認識は本当に凄いですよね。スピノザは存在や現象を目的から出発して捉えることの有害性を繰り返し強調します。全てに原因はあるが、原因と目的を混同し、取り違えてはいけないと。300年以上前に、何かが欠けているとか、不完全だと感じるのは全て偏見であると言い切っているのはやはり凄いと思います。

 そうですね。物事を加算的といいますか、数字のように捉えると、例えば先ほどの五感でも、そのうちの一つが無いと五感のうちの一つが欠けたという感じがしてしまいます。そうではなくて人間の感覚を一つとして捉えること。加算的に考えると一つの感覚が無かったとしても、その人の感覚としては(完全な)感覚として存在しているわけですからね。

ボヴェ それは動物を見ていてもわかりますよね。例えば、コウモリは視覚が極めて脆弱にも関わらず超音波を放って世界を把握し、暗闇の中を自由に滑空できる。人間は犬のような鋭い嗅覚で世界の微細な差異を把握することは出来ないし、魚のように広大な海の中を自由に泳ぎ廻ることも出来ない。それぞれの生き物はそれぞれの仕方で世界を把握し各々のコナトゥスに従って生きている。しかもスピノザは種や属というような生物学的な分類による把握にとどまらず、あくまでも個体のコナトゥスそのものに着目する。ドゥルーズはそこにユクスキュルの提唱した「環世界」や現代のエソロジー(動物行動学)に通じる視点を指摘していて、なるほどなと思いました。目が見えないコウモリにはコウモリの自由のあり方があり、人間にもそれぞれの特性に応じた自由のあり方がある。自分の特性を受け入れた上で、その力が豊かに発揮できる様式を獲得し行為できたときに、スピノザの言う自由な状態に至ると言うことなのでしょうね。昨今の多様性をめぐる議論にも通じる、非常に現代的な捉え方ですね。



-空間を介して響き合う「音」と「身体」-


 確かにそうですね。ちょっと話は変わりますけれども、次のボヴェさんとの舞台は、私にとっては人前で演奏する約2年ぶりの舞台になります。

ボヴェ そうなのですね。

 去年の6月に『PASSION』というアルバムを発表したのですけれども、発表する前にコンサートは中止になって、その後も何回もありましたけれども全て中止になり、つい先月の9月のコンサートも、ちょうど感染者がピークになるところに重なったので、中止という判断をしました。やっと人前で演奏する、コロナ後初の舞台ということになります。緊張もあり、楽しみであり、とても大事な公演になりそうです。

ボヴェ やはり実際にお客様に入っていただいて、同じ時間と空間を共有する。その喜びは他では得難いものがありますね。

 本当にそうですね。

ボヴェ 音を添えるという観点からは、今回の空間はどのように感じられますか。前回共演しました、京都文化博物館もピアノの生演奏でしたが、その際はマイクなども使わずに生の響きのみで向き合いました。今回は外の街の営みの音も入って来ますし、コンサートホールのような響きとも違う残響です。お客様にはサプライズな外の響きもありますしね笑。日常の営みの音に寄り添うということになりますが、いかがですか。

 これまでボヴェさんとやってきた中で、日本庭園であったりとか、大きな海を背景にするところであったりとか、三渓園の時のように日本家屋の中とか、美術館のエントランス、明治時代の洋風建築ですとか、色々なシチュエーションでやっていく中で、不思議とこういう風景、こういう光にはこういう音が合うんだなという発見を、一緒にしてきたと思うのですね。それは、他の、例えば自分がソロでどこかでやって見つけられることとはちょっと違うんです。ボヴェさんと一緒にやることでする発見というのは独特なものがあって。今回の会場はピアノがあって、劇場であるけれども後ろが空いていて、世田谷美術館の時のように、後ろの背景はあるけれども背景の音が聞こえないという状況ではなくて、音も入って来るという今回の条件だと、これまでボヴェさんとやって来て、積み上げてきたものというのが、全部含まれるのではないかと思うんです。

ボヴェ 確かに、今まで取り組んで来た様々な要素を含んだ空間になりますね。原さんとご一緒するときに特に強く感じるのですが、毎回、空間を蝶番につながっているような感じがするのですよね。音と身体というよりも、音と空間、身体と空間、というように、空間が間にあって、そこに音と身体が一緒に寄り添ってゆくような。

 そうです、そうです。

ボヴェ その時々の空間の魅力が一番豊かに息づく在り方を、一緒に探ってゆくような感じがありますね。

 そういう意味では、ボヴェさんとはセッションでは全く無いんですよね。全くセッションはしないですね。

ボヴェ 確かに。面白いですね。何かね、私は向き合うと辛いものが、ありまして笑。

 はっはっはっ笑。

ボヴェ それは他の音楽やダンスの方ともそうなのですが、人と人との関係性の中に閉じてしまうと息苦しくなってしまうと言いますか、身動きが取れなくなってしまう。だけど、空間というものをベースにすると、お互いの視線がかち合わないというか、ある種の節度ある距離を保ちながら、それぞれが豊かに息づくポイントを探ってゆくことが出来る。そういう関係性は凄く良いなと思っていて、空間をよりしろにして一緒の場を共有する中で生まれてくるものを丁寧に探ってゆけたら良いなと思うのですよね。スピノザ風に言うと、それぞれのコナトゥスに従いながら、触発しあい変状しあうという笑。そこに凄い喜びを感じるのですよね。

 そうですね。私も協働する時は、向き合って話すよりもできるだけ相手と同じ方向を向いて、同じものを見ようとするスタンスです。


-「喜び」について-


ボヴェ 私にとっては舞台を観る喜びも舞う喜びも、スピノザの言う、自由をもたらす喜びに通じるのかな、とも感じているのですね。スピノザは「喜び」というものを一番大切にしていて、個体の喜びを増大させるものは良いもので、個体の喜びを減少させ、悲しみに舵を切らせるものはよろしくないとする。ただ、喜びを「より大きな完全性」悲しみを「より小さな完全性」と表現していて、どちらも完全であり、度合いとして捉えているのは面白いですね。しかし、スピノザは悲しみをもたらすあらゆるものを拒絶する姿勢を鮮明にするので、そこは若干、私にはしっくりとこないのですよね笑。私はどうしても、「もののあはれ」ですとか「はかなし」というような、悲しみを受け入れた先にもたらされる喜びというものも、あるのではないかな、と感じてしまうのですよね。

 喜劇の中の悲しみみたいなものもありますしね。

ボヴェ そうですね。でも、もしかしたら、悲しみにとどまっているわけではなくて、悲しみを受け入れることで舵を切り、喜びへと向かってゆくプロセスの状態と捉えてみると、スピノザの「喜び」に通じてゆくのかも知れませんね。

 そういう喜びを感じられる舞台が作れたら良いですね。

ボヴェ 本当にそうですね。観に来てくださった方々が、それぞれに、各々の「コナトゥス」や「自由」そして「喜び」について、思いを馳せていただける場になったら、とても嬉しいですね。秋風のそよぎも感じられる素敵な空間で、皆さまと共に一期一会の豊かなひと時を共有できたら良いですね。

 楽しみですね。

ボヴェ 本日は長時間の対談、ありがとうございました。

 ありがとうございました。

[2021年10月吉日]


[公演概要]


ボヴェ太郎 舞踊公演『CONATUS』


2021年10月31日[日]

16:30開演(開場16:00)

AI•HALL 協力公演


構成・振付・出演:ボヴェ太郎

作曲・ピアノ演奏:原 摩利彦


空間と身体の呼応をコンセプトに創作を行う舞踊家・ボヴェ太郎によるソロ舞踊公演『CONATUS』(コナトゥス)。坂本龍一との共作をはじめ、野田秀樹の舞台音楽やコムデギャルソン・パリコレクションの音楽を手がけるなど、国際的に活躍する気鋭の音楽家・原摩利彦を共演に迎え、自発性に基づく「意志の自由」を否定し、内在的な必然性や能動性に従うことで実現する「自由」のありかたを考察した、17世紀の哲学者・スピノザにおける「コナトゥス」(自己保存力、生存しようとする力、変状する力)に着想を得た新作を上演いたします。劇場の搬入口をひらき、移ろいゆく夕暮れの街を借景に紡がれてゆく一期一会の舞台。舞踊とピアノ演奏が繊細に響き合う、静謐なひと時をお楽しみ下さい。


[料金]

予約:一般3,500円 学生2,000円

当日:一般4,000円 学生2,500円

※全席自由

※未就学児童の入場はご遠慮下さ

※学生の方は学生証をご持参下さい


[チケット予約]

◎窓口予約・電話予約:アイホール Tel: 072-782-2000(火曜日休館)

◎メール予約:Taro BOVE Dance 事務局 E-mail: office@tarobove.com

件名に「Conatusチケット予約申込」と明記し

本文に以下の内容を記入の上ご送信下さい

・お名前(フリガナ)

・チケット枚数(一般・学生)

・メールアドレス

※チケットは公演当日に会場受付にて現金引換となります


ボヴェ太郎 Taro BOVE |http://tarobove.com

舞踊家・振付家。空間の〈ゆらぎ〉を知覚し、感応してゆく「聴く」身体をコンセプトに、歴史的建造物や庭園、美術館等、様々な空間で創作を行なっている。能楽との共演をはじめ、〈ことば〉や〈音〉によって立ちあがる空間に着目した作品も多く手がける。主な作品に、『不在の痕跡』、『implication』、『余白の辺縁』、『Texture Regained ─記憶の肌理─』、『Fragments─枕草子─』、『百代の過客』等がある。能楽との共演作品に、『消息の風景─能《杜若》─』、『Reflection─能《井筒》─』、『縹渺の露─能《野宮》─』、『寂寥の薫─能《楊貴妃》─』等。劇場作品の他、『微か』(世田谷美術館)、「カンディンスキー展」(京都国立近代美術館)における公演、西ジャワの古典歌曲トゥンバン・スンダとの共演、ルイ・ヴィトンとの共同制作による映像作品、等がある。


原 摩利彦 Marihiko HARA | https://www.facebook.com/marihikohara/

京都大学教育学部卒業。同大学大学院教育学研究科修士課程中退。音風景から立ち上がる質感/静謐を軸に、モダンクラシカルから音響的なサウンドスケープまで、舞台・ファインアート・映画など、さまざまな媒体形式で制作活動を行なっている。ソロアーティストとしてアルバム《Landscape in Portrait》、《PASSION》をリリース。亡き祖母の旅行写真とサウンドスケープの展覧会《Wind Eye 1968》を発表。坂本龍一とのセッションやダミアン・ジャレ+名和晃平《VESSEL》、野田秀樹の舞台作品、《JUNYA WATANABE COMME des GARÇONS 》パリコレクションの音楽などを手がける。アーティスト・コレクティブ「ダムタイプ」に参加。ボヴェ太郎との共演は8作目、『百代の過客』(2017)以来となる。

照明:吉本有輝子

音響:島田達也

衣裳デザイン:ボヴェ太郎

衣裳製作:砂田悠香理

舞台監督:大鹿展明

広報デザイン:外山 央


[お問合せ]

Taro BOVE Dance 事務局

E-mail: office@tarobove.com


[会場案内]

AI・HALL 伊丹市立演劇ホール

〒664-0846 兵庫県伊丹市伊丹2-4-1

Tel: 072-782-2000 Fax:072-782-8880

E-mail: info@aihall.com  http://www.aihall.com

・JR「伊丹駅」前 ・阪急「伊丹駅」より東へ徒歩約10分


主催:Taro BOVE Dance


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