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『Fragments─枕草子─』をめぐるダイアローグ
ボヴェ太郎[舞踊家・振付家]×原 摩利彦[音楽家]
photo: Hironobu Hosokawa

静寂をもたらす音

ボヴェ:原さんには2009年より私の舞台に音を添えていただいておりますが、本日は、今まで共に取り組んで参りました作品を振り返りながら、音楽と舞、あるいは音と空間の関係などについて、お話出来ればと考えています。作品についてお話する前に、原さんが創作をされる上で大切にされている思いやスタンスがありましたらお聴かせいただけますか。
 

原:僕は結構いろいろな形態で音楽に関わっています。ライブを行ったり、CDを作ったり、舞台とか映像の音楽も作ります。静かなものから激しめのものも作りますが、一番自分のもともとの肌に合うのは、静かなのが好きですね。静かなといっても沈黙、サイレンスではなくて、音は鳴っているけれども、そこに静けさがあるみたいなのが好きで、自分の音でそういう風な空間が作れたら良いなという思いで、やっております。
 

ボヴェ:“静かな音”ではなくて、“静けさをもたらす音”ですね。
 

原:そうです、そうです。たんに本当に静かな音の時もありますが、そうじゃなくて、今ボヴェさんが言われたように、結果として静けさをもたらす音というのはありますね。これは最近気がついたことなんですけど、サイレンスという言葉って音楽の中ではよく使われていて、よく見たり聞いたりする言葉なんですけれども、音が無いのと有るのとの二項対立じゃないですが、そういった対比から生まれるものではないと思うんですよね。
 

ボヴェ:原さんは環境音を録音して作品に取り入れられたりもされていますので、良くお分かりだと思うのですが、例えば森などにゆきますと、とても静かとは言いがたい、様々な周波数の音が物凄まじい感じで響き合っていますよね。しかしそこに我々は静けさを見出している。決して静かなわけではないのですが(笑)。
 

原:そうなんですよ、本当に。録音もそうですが、実際に山に行って耳を澄ますと、物凄いダイナミクスというか、まず全方位から音が来ていることに驚いたり、強弱とか、動きとかがあって、本当にこれ静寂っていうのかなと思うぐらい、そう感じますね。
 

ボヴェ:“閑さや岩にしみ入る蝉の声”(笑)。静寂というのは静かな状態なのではなくて、人が対象の中に見出すものだと思うのですよ。今、原さんは耳を澄ますとおっしゃいましたけれども、自分の感覚が開いていって外を受け入れようとする、そういう姿勢を呼び覚ますものでもあると思います。原さんの静寂に対する姿勢は、私の創作スタンスと響き合う部分が多いと思いまして、これまで様々な音を添えていただいて参りました。
 

空間に寄り添う(バレエ・リュス100周年記念公演『post festum』京都精華大学,2009年)

 

原:一番初めは、バレエ・リュスの記念展での公演でしたね。
 

ボヴェ:バレエ・リュス100周年を記念して、2009年に京都精華大学で開催された美術展の一環として上演しました、『post festum』(ポスト・フェストゥム)が、初めてご一緒した作品でした。タイトルは「祭りの後」という意味です。熱狂的なムーブメントを生み出したバレエ・リュスの時代、それが過ぎ去った後に、もう一度、その世界に静かに思いを馳せると言いますか、その様なアプローチで取り組めたら良いなと思いまして、原さんに楽曲の作曲、及びオペレートをお願いしました。
 

原:雪が舞っていましたね。
 

ボヴェ:極寒の1月、野外の水上ステージでの公演でした(笑)。当日は大雪で、開催も危ぶまれていたのですが、公演の直前に奇跡的に雪が弱まり、白銀の世界の中で上演しました。細雪の舞う池のほとりに、かがり火を灯して、揺らめく焔と舞のシルエットが水面に響き合う幻想的な舞台となりましたね。音楽的には、二十世紀初頭のバレエ・リュスで使われていた音楽を踏まえた上で、現代においてどのように響かせたら良いかという思いを持って取り組みましたね。
 バレエ・リュスの音楽は本当に素晴らしい曲が多いのですが、その中から『牧神の午後』を主題に選びました。ドビュッシーがマラルメの詩に触発されて作曲した音楽を、ディアギレフが舞台作品としてプロデュースし、ニジンスキーが踊ったという、バレエ・リュスを代表するエポックな作品です。主題となる音の和声を原さんにピアノで演奏、録音していただき、それをコンピューターで再編集をした音源をメインに使用しましたね。原曲が分からないくらいに引き伸ばされた音の響きなのですが、そこにバレエ・リュスの初演を指揮したモントゥーによる、古い歴史的音源を微かに重ねていただきました。往年の演奏が時おり風のように通り過ぎることで、『牧神の午後』の世界が体感的に想起されるような音作りをして頂きましたね。

 

原:この時はバレエ・リュスという主題が決まっていましたが、それ以降は直接的な音楽が関わるような主題は無かったですよね。だから一番初めの取り掛かりとしては、とても良い企画でした。というのは、漠然と特にテーマも無い中で作るというのは、なかなか難しいですし、ボヴェさんと仕事をするのも初めてでしたから。でも僕は、ボヴェさんの舞台は2007年の『implication』から拝見しておりました。結構観ていたのですが、実際にお仕事すると、この方向性かなと思うことも少し違って、それはいろいろな話し合いをしながら調整して行きましたね。それ以降、何作も一緒にやっていますが、僕はボヴェさんの野外担当、非劇場担当で(笑)。
 

ボヴェ:非劇場担当アーティストとして活躍していただいております(笑)。
 

原:はい。凄く面白くて、やはり自分のコンセプトとしては、さっきも言いましたけれども、静寂を求めているわけですが、劇場とかギャラリーとかの密室で、その空間を作るというよりかは、むしろ、もとからその場所に音があって、それと共に寄り添いながら、時には自分が主張したり引っ込んだりしながら、空間を作るというのが、自分の求めているものです。で、それは初めからそうで、ボヴェさんと関わっていったというよりは、ボヴェさんとやりつつ、だんだんとそれが分かって来たという感じですね。
 最初の『post festum』は結構大きな広い会場で、半野外ではなくて、本当に野外。音量は、かなり大きくなりました。響きも、最初は夜の公演でしたから、少し不協和音のような短調のようなものが良いかなと思いきや、それは合わないという発見があったりとか。実際にその場所に身を置いて、耳を澄ましたり、また音を出したりすることによって得られる発見というのが、毎回面白いです。

 

ボヴェ:そうですね。そういった発見は毎回ありますね。私は空間を知覚しながら舞うというスタンスで舞台に取り組んでいます。劇場での公演の場合も空間を意識した創作になるのですが、題材となる音楽や文学などの作品世界から生み出される空間の中で舞う、という側面がより強くなります。しかし、非劇場空間での公演の場合は、まず物理的な空間が主役としてあって、そこにどう寄り添ってゆくかという形になりますね。その空間が内包している魅力への気付きと言いますか、舞を通して空間がより豊かに息づいてゆくにはどうしたら良いかというスタンスで取り組んでいます。
 原さんとは毎回、空間を蝶番としてつながっているような印象がありますね。身体と音との関係性ということも勿論ありますが、そのあいだにある空間にそれぞれの特徴、磁性があって、そこを媒介にして音とつながり、舞とつながる、そういう在り方を模索しているように感じています。

 

原:今、その話を聴いて、振り返ると、ボヴェさんの公演の音楽を作る時は、ボヴェさんの振付に音を付けたことは無くて、場所とか、ボヴェさんが立っている会場の風景に付けている感じですね。本当に。
 

ボヴェ:そうですね。私の場合も身体の側から舞を紡いでゆくのではなくて、空間の側から考えていって、その場に相応しい立ち方は何かという流れで創作をしています。そこに集っている人々の存在も含めた風景と響き合うようなあり方を考えているのですよね。
 

 

場をしつらえる

原:もう一つ、同じ事を言い換える感じになるのかもしれないんですけど、ボヴェさんが言われた周りから舞を作っていく在り方。「箱」という言い方しますけど、何かをする「箱」をしっかりとしつらえておけば、その中に何を置いてもうまくいくと言うか。良い意味で何をしても大丈夫と言うか。そうじゃないと、内容にフォーカスされすぎてしまって、失敗してしまうことがあるような気が僕はするんですけれども。勿論、内容もありきなんですけど、置く場所がしっかりと整えられることによって、生きるということがあると思うんですよ。
 

ボヴェ:とても大切な点ですね。私も舞の上演について考える時、場をしつらえることが九割方の仕事だと考えています。相応しい場がしつらえられれば、そこで何をしようか、どう動こうかというようなことは、ほとんど考える必要は無くなるのですね。その場に安心して身をゆだね、舞に集中し、誠実に向き合うことが出来る。お客様の存在も含めた空間がより豊かに息づく為には、どのような音を添え、舞を添えてゆくのが相応しいのかということを常に心がけています。“空間”が“場”に変容してゆく可能性を模索してるともいえるのかも知れません。
 

原:ボヴェさんの公演は場所が面白いんですよ。どこも素敵で。そこで音を出せるというのが楽しみですね。普通は出せない場所がほとんどじゃないですか。なかなか音を出せない場所で音を出すというのは、凄く、音楽をやっている身としてはたまらない体験で、楽しいですね。大変ですけど(笑)。
 

ボヴェ:大変であればあるほど燃えるという側面はありますね(笑)。どうしたら良いのだろうと途方に暮れることもありますが(笑)。しかし、空間にはそれぞれ、その空間が息づくポイントが必ずあると思うのですよ。音が良く響く周波であったり、観る側の位置や、舞う位置も含めて、その空間の中で一番しっくりいく点が必ず内在しているはずで、そこを丁寧に探ってゆく作業が面白いのですよね。空間に耳を澄まして、特性を注意深く見守り、見定めて、「ここだ!」という点を探ってゆくあり方。自分の思いのままに空間をコントロール出来てしまう劇場等では、なかなか気が付かないような発見が毎回ありますね。空間に対して身を開いてゆくことで得られる様々な発見。その喜びですよね。
 

原:本当にそうだと思います。僕はエンジニアでは無いから、あくまで音楽家としての耳でしか音を作っていけないのですけれども、毎回やっているうちに、リファレンスが全くないところから出発して、やる一公演ごとに少しずつ経験が出来ていって、それを次に生かして、次はまた別の場所で、また難題があって、それを少しずつクリアしてゆくことで、経験が積まれていくというのも一つの楽しみですね。
 

ボヴェ:そうですね。空間が変われば、それに対応する中でおのずと蓄積されてゆくものはあると思います。例えば、ある場所ではうまくいった響きがあったとしても、それを別の場所にあてはめた時には、微妙によろしくないこともありますよね。なぜ前の空間では良くて、ここでは良くないのだろうということを考えながら、繰り返し試してゆく中で少しずつ変化をしてゆく。そういった本当に微細で繊細な変化の積み重ねの上に、創作は成り立っているのだと思うのですよ。
 私は、対象に対して誠実に向き合うことの出来る、職人気質の方と創作を共にするのが好きなのですね。自分がどうしたいかではなく、対象がより輝く為に自分は何をすべきかということに集中する。それが重要なのかなと。難しい事ですが。その積み重ねを通して、おのずから変化してゆくものこそが尊いと思うのですよね。極論を言えば新しい試みを考える必要は無いのです(笑)。企図的に考え出された“新しさ”や“独創性”は己と作品を蝕む危険な毒をはらんでいますから。さかしら心はいただけません(笑)。

 

原:さっきのお話からすると、「何か新しいものをするぞ!」という宣言を掲げて公演に取り組んでいるわけではないですが、いろいろな新しいものが毎回発見される。僕は結構、音の質感の違いとかそういうのが好きなんですね、質感の差異みたいな感じ。もしかしたら、質感の差異みたいなものに対する興味が、ボヴェさんとの公演をやっていると、毎回あって、前とこれとはここが違うみたいな。その差異が面白いのかもしれないと思いました。
 

夜の美術館 (『in statu nascendi』世田谷美術館,2009年)

 

ボヴェ:2作目は世田谷美術館での公演『in statu nascendi』(2009年)でしたね。閉館後の夜のエントランス空間で作品を上演しました。天井の高い大理石の空間の中央に透明なアクリル板を置いて舞台に見立て、お客様には四方の壁を背に中心を囲むように座っていただきました。階段があったりいろいろと情報量の多い空間でしたが、幽かなあかりのもと、空間の中心に意識を集中していただき、静かにまなざしてゆく中から徐々に全体に意識が広がってゆく、そのような流れで構成しました。暗がりに浮かぶ夜の美術館の魅力を舞を通して楽しんでいただく、そのような作品になりましたね。
 

原:僕はピアノを弾いたんですよ。大変でございました(笑)。いやあ、あれは大変でした。
 

ボヴェ:スタインウェイを華麗に弾きこなして下さいましたね(笑)。恐らく原さんとご一緒した公演の中で一番、空間的にも音楽的にも整理してゆくのに難しい作品であったように思います。音楽的には何も無い所からの初めての共同作業で、あの空間にどのような音が馴染むかを探りながら作曲をしていただきました。コンピューターによる響きとピアノの生演奏、その二つを合わせた構成を考えてゆきましたが、様々な要素を試してゆく中でどんどんと切り詰められ、最終的には余白の多いピアノの単音(和声もありましたが)と、スピーカーからは2つの持続音「ラ」と「ラ♭」がそれぞれ一回ずつ、かそけき響きを添えるというシンプルな形に落ち着きましたね。構成段階で原さんが過去に作られた音や候補曲を鳴らして頂いたのですが……
 

原:ちょっと過剰だったんですよね、何か。
 

ボヴェ:そうですね。非常に雄弁な空間でしたし、残響もありましたから。要素を引く決断が出来るかどうか、その大切さを改めて感じた企画でもありました。私の思う“構成”とは、何かを付け加えてゆく作業ではなくて、対象を削ぎ落とす中から浮かび上がってくるものに迫ってゆくあり方なのですね。ですからこの時も、原さんの音を情け容赦なく切り落としてゆきました(笑)。
 

原:足一本のタコみたいになりましたよね(笑)。日中、美術館は開館していますので、ピアノがあるスタジオを予約して、一緒に入って作曲をしましたね。
 

ボヴェ:気が付けばグレゴリオ聖歌の主題に近い音になってゆきましたね。
 

原:両手ユニゾンみたいな形で。あれは面白かったですね。
 

ボヴェ:ハードルの高い空間でしたが、その分、空間に対して意識を開いてゆくことの大切さを学ばせていただきました。素敵な体験となりましたね。
 

原:この公演は、作家の梨木香歩さんがエッセイに取り上げて下さいましたね。
 

※『不思議な羅針盤』梨木香歩著(文化出版局)→
http://books.bunka.ac.jp/np/isbn/9784579304349/
 

ボヴェ:本当に素晴らしい文章を寄せて下さいました。公演へと向かう道中からの気持ちのうつろいと公演の模様、そして後の思いが素敵な文章で綴られています。公演を観ていない方が読んでも想像が膨らんでゆく文章で、「こんな風に舞台を観て下さると良いな」という私の思いが成就した感じです(笑)。
 

原:嬉しかったですね。
 

 

空間に身をゆだねる(『陰翳』国指定重要文化財・旧岡田家住宅,2010年)

ボヴェ:次なる作品は『陰翳』(2010年)ですね。江戸時代の延宝2年(1674年)に建てられ、国の重要文化財にも指定されている貴重な歴史的建造物「旧岡田家住宅」(伊丹郷町館)に於いて上演しました。元造り酒屋の町家で、普段は一般の方は上がることの出来ない場所なのですけれども、御縁あって公演をさせていただくことになりました。これも完全に空間が主役の公演でして、正に空間が息づくにはどうしたら良いかということを中心に考えた公演になりました。立派な梁に支えられた豪壮な作りの大規模町家で、店の間、次の間、奥の間と連なる座敷を、土間から望む事が出来る作りになっているのですが、それが歌舞伎のセットさながらな風情なのですよね。今にも弁天小僧が出てきそうな(笑)。そして座敷と土間が能楽堂のように一つの大屋根の下に包まれているのですよね。江戸時代に建てられた形のままに。
 

原:庄屋が出てくる演劇が始まりそうな。
 

ボヴェ:本当にそうです。そんな素晴らしい空間で舞わせていただきました。この時は、谷崎潤一郎の『陰翳礼賛』の世界観を踏まえ、灯りをお客様からは見えない杉戸の裏に一灯だけ置き、微細なうつろいを通して、陰翳の奥行きに思いを馳せるようなあり方を模索しました。天井の黒漆のリフレクション、畳や欄間の繊細なシルエット、そこに佇む私の気配との響き合い、それらを静かに感じていただけるような場になればという思いをもって取り組ませていただきました。入り組んだ作りの空間ですので、私の姿がお客様からちゃんと見えている時間は少なく、物陰の中を移動している様を想像していただきながら、空間に思いを馳せるような、非常に繊細な試みになりましたね。
 音については、木造の建造物特有の柔らかく調和する響きが魅力的な空間なのですが、町の中心部にありますので雑踏も聞こえて来るのですよね。伊丹というお土地柄、空には飛行機が舞い踊り、国道の近くですから車のクラクションも鳴っている。しかし、であるがゆえに、その空間の特異な静寂が際立つという側面がありましたね。建物を一歩外に出れば日常の営みがある中に生まれた異空間といいますか。前回の世田谷美術館の時には、ほとんど何の音も無い所に音を添えてゆく感じでしたから、一般的なイメージの“静寂”というのに相応しい、シンプルで音数の少ない音作りをしていただきましたけれども、この公演の場合は、様々な営みの音が入って来ますので、実際に鳴っている音と寄り添ってゆく形を考えてゆきましたね。異なる周波数の持続音を添えたりと、音的には要素が多くありましたね。

 

原:多かったですね。ピアノのメロディーもありましたし。本当に、その場所に鳴っていた町の音が、物凄く動きがあったので、持続音をずっとやってしまうとそっちばっかりが目だってしまうので、用意した音も出来るだけ動きのあるものにしました。で、この頃からその場に対してどうしたら良いのかというのを、ちょっとつかんできたかなという気がしています。
 

ボヴェ:私もこの頃から、より空間に身をゆだねてゆく方向性が強まってきた印象があります。世田谷美術館の頃にはもう少し自分で空間をコントロールする側面が強かったと思うのですが、だんだんそれも解けてきました。そうしなくても舞える心境になって来たともいえますが。
 

原:もっと場所の事を感じられる段階になったということですか。
 

ボヴェ:感じられるようになったのか……。場所に信頼を寄せられるようになったと言いますか。自分が変えなくてもその場所はちゃんとそこに存在しているから、身をゆだねてゆくあり方になって来たのですよね。もちろん最低限しっかりと決めてゆく部分はありますよ。自分がどう立つかということは細かく決めてゆきます。特にこの時は、建物の構造が非常に入り組んだ造りでしたから、立つ位置によって光ののり方が全然違ってしまうのですよね。本当に繊細で、足半足の違いで印象ががらりと変わってしまいます。ですので、私以外の人に代わりに立っていただいて、どこにどう立つかを、かなり緻密に決めてゆきました。
 しかし、立つ位置は決めるけれども、どう舞うかは決めずに、本番の興にゆだねると(笑)。空間の響きや、お客様の息遣いなどとの一期一会の出会いに舞いそのものはゆだねてゆく。どこを決めてどこをゆだねるかということが、だんだんと見えて来たのかも知れないですね。

 

 

風景と響き合う (神戸大学,2010年、『Resonance of Twilight』旧板橋家住宅・庭園,2011年

ボヴェ:その後、2010年に六甲山の頂の中腹にある神戸大学で行われたシンポジウムの一環で小品を上演しました。会場は、幅20メートル、高さ10メートルの四角い額縁が中空に浮いたような構造の建物で、眼下に広がる神戸の海と港街の風景がバシッとパースペクティブで切り取られた、凄い迫力の空間です。半野外でしたので港街の営みが聞こえてくるわけです。遠くから霧笛が響き、電車の音や空を舞うカモメの歌も聞こえてくる……
 

原:ここは、なかなかの轟音を出したと思います。それだけ大きな音を出さないと風景に負けるという感じがしたので。いつもは静かな所から始まるのだけれども、他の公演と違って20分位と凄く短かったので、比較的早くクライマックスを迎えるという、その一瞬を切り取った感じですね。風景も何もかも。
 

ボヴェ:なかなか壮大で、スペクタキュラーな作品になりましたね。
 

原:本当に。始めに戻りますけど、静寂とか静けさというのは、音が無いことではない、という感じですよね。轟音を出しましたが、うるさいと言う印象は無かったと思いますよね。
 

ボヴェ:そうでしたね。そして次が再び伊丹郷町館での公演になります。前回取り組んだ「旧岡田家住宅」の隣にある「旧板橋家住宅」の二階の座敷を客席に、眼下に広がる枯山水の日本庭園を舞台に、『Resonance of Twilight』(2011年)という作品を上演しました。夕暮れにまぎれゆく庭に私が独り舞うという企画でしたが、この時も音的にはなかなか大変でしたね。
 

原:そうです。前の「旧岡田家住宅」の中で公演した時でも町の音は大きかったのですけれども、まだ建物の中だったということで、遠くにある感じでしたけれど、この時は庭でしたので、国道の車の音や飛行機の音がダイレクトに入って来ましたね。いやあ。大変でした。
 

ボヴェ:町の営みがかなり豪快に展開していましたので、協和音が合いましたね。
 

原:良かったですね。不協和音だと要素をただ増やすだけみたいになるんですけれども、そうではなくて、町の音を組み込んだり、町の音を背景にしたり出来るような音の方が良いと思ったんです。さっきの神戸大学での話ですと、町の音が多い時は変化が多い音をつけたという話だったけど、この時は夕暮れ、黄昏時から夜に向けて、日の光とか風景の変化が大きかったので、音はそんなに変化は無かったかも知れないですね。
 

ボヴェ:そうでしたね。空間のしつらえとしては、枯山水の庭石の後ろに明るさを一定にしたライトを置いただけのシンプルな形にいたしました。黄昏時の公演でしたので、初めは日の光にまぎれてライトの存在に気がつかないのですが、暮れてゆくにつれて徐々に光が立ってきて、やがて庭石は完全なシルエットになってゆきました。その光のリフレクションを受けて浮かびあがった白州や松の陰に私が舞うという、かなり酔狂な企画となりました(笑)。空の色が劇的に変わってゆきましたね。
 

原:劇的でしたね。本当にこんなに変わるのかと。
 

ボヴェ:公演が終わる頃には真っ暗ですから。自然の時間のうつろいを感じる作品になりましたね。
 

 

余白に見出されるもの

 

原:自分は音で関わっていて、音で思考するのですけど、それだけで考えてしまわない、しまえないというか。常に全体を見ながらと言うのが、難しくもあり、面白くもあるんですよね。やっぱり。
 

ボヴェ:極めて重要な指摘だと思います。音に携わる人、照明に携わる人、舞台に立つ人、皆同じだと思うのですが、例えば音楽家でしたら音で世界を描ききろうとしてしまう。そうすると、外の要素と合わさった時に、やはり過剰なのですよ。全部を音で描ききらないことが大切だと思うのですよね。最良の形にまで音を切り詰め、濃縮してゆく必要がある。でもこれは非常に勇気のいることだし、むつかしいことなのですよね。舞に関しても同じことが言えます。情報量が多いと、観る側は感覚を閉ざしてゆきますから、僅かに足りない位の状態が良いのですよね。
 

原:なるほどね。余白の辺……
 

ボヴェ:『余白の辺縁』(笑)。アーティストは8割方を描けば良いと思うのですよ。残りの1−2割分は観客の想像力にゆだねる。しかし舞が8割では駄目なのですよね。まず空間が半分の5、舞は1、音も1、光も1、そして残りの余白に広がる観客の想像力によって作品は完成する。
 

原:本当にそうですよね。それを学びますね。劇場でやる舞台とかの音楽を作ることもありますけど、その場合も音楽は不完全な方が良いとか、音楽で全部完結してしまわないように作るんですけど、ボヴェさんの舞台の場合は、場所という要素の割合が大きいので、より全体の事を考える事がありますね。
 

ボヴェ:その分、一割に切り詰める要素というのはそれだけ高いクオリティーが必要なのですよね。ただ漫然と1割のパワーであれば良いのではなくて、本来10割のものを1割に濃縮するという。
 

原:そうそうそう。一割入魂(笑)。だから凄く濃密にはなりますよね。
 

ボヴェ:緊張感も漲ってまいりますしね。
 

原:毎回緊張しております(笑)。空間的にも未知数な部分も多いですし。
 

ボヴェ:危うきに遊ぶ悦び(笑)。お客様にも、その悦びを堪能して頂いて(笑)。
 

原:自分が観る側だったら、変わった場所で公演をされていると、そこにまず行く楽しみというか、それが最初にあって、二倍楽しめる感じが僕はしますけれどもね。
 

ボヴェ:そうですね。場所へ赴くというニュアンスは良いものですよね。その場に思いを馳せるところから公演は始まっているという感じがありますね。
 

原:あと舞台が好きとか、ダンスが好きとかそういった人以外の人達にも、この場所で何かするのだったらという、開かれている感じがあって、人も誘い易いですし。
 

ボヴェ:古くからある歴史的建造物で催しがあると知り、その街に長く住んでいらっしゃる方が興味をもって見に来て下さるということもあるのですよ。その方は「凄く素敵で良かったです」と仰って下さり、近くで私の公演がある時にはいつも観に来て下さいます。嬉しいですよね。
 

原:それは凄く良い話ですね。
 

 

営みと共に(『微か』世田谷美術館,2012年)

ボヴェ:そして次は、再び世田谷美術館での公演で『微か』(2012年)という作品になります。この企画は世田谷美術館が改修の為に長らく休館していた後の、リオープン記念公演としてご依頼をいただきました。会場は扇形に広がる大理石の床の美しい展示室で、大きな横長の窓が4つ連なり、窓外に砧公園の豊かな自然を望むことの出来る素晴らしい空間でした。そのランドスケープの内側にお客様に座っていただき、お客様と窓の間の広い扇形の空間に私が舞う、そういう公演となりました。照明は使わずに、春の穏やかな自然光のもと、微細な光の変容の中で舞う作品を構想してゆきました。
 ただ、予想外なことに桜の開花が例年よりも遅れまして、正に春爛漫の週末に公演が重なり、砧公園に一年で最も人が溢れる中での開催となりました。普段はたまに人が通りかかる位の静かな風景なのですが、この時は桜が咲き乱れ、春の陽気に浮かれたった人々がさんざめく喧騒の風景を背に舞うことになりました。予想以上にハードルが上がり、やりがいのある舞台となりましたね(笑)。窓のすぐ外を人々が列を成して通過し、なんだなんだと中を眺めてきたりもするのですよ(笑)。
 美術館に、せめて目の前の道だけでも上演中、通行を止められませんかと聴いてみたのですが、公園管理の兼ね合いでむつかしいと。過去に一度だけ、今上天皇が御幸あそばされた時に、美術館スタッフが植木の茂みに潜んで民の通行をご遠慮頂いたことはあるそうで、「ボヴェさん、宮家に親しい方はおられませんか、公演を観に来て下さる方がいらっしゃれば……」という話も出ましたが、残念ながら、やんごとなき友人はおらず(笑)。まあ、それも含めて受け入れてですね、“場に佇む”とは何かということを考えながら構成してゆきました。
 外の風景をコントロールすることは不可能であるし、それに対抗してゆくのも違いますので、これはもう“おもしろうてやがて悲しき……”の方向でゆくしかないと思い定めました(笑)。外の風景をまなざしながら静かにもの想いに耽るというか、そういう場になるような構成を考えてゆきましたね。

 

原:明るい音。音だけじゃなくてこの時は明るかったんですよね。それまでボヴェさんの舞台は、人がボヴェさん以外出て来なくて、人間の存在が無くて、そこに音を添えて、ボヴェさんが出て、光りがあってということだったんですけど、今回は背景に物凄い人の営みがあって、それが凄く映画のような感じで、何ていうのかな、ボヴェさんの人間賛歌みたいな感じもしました(笑)。
 また、場所も大理石の象牙色というかアイボリーで、光りが射していて、ボヴェさんの衣裳もいつもは黒なのですけど、その時は藤紫の明るい色で、そして春で、営みがあって、何かこう昇天するような(笑)。人生と人間を賛歌しながら昇天するような音をやりました。と言ったら駄目かもしれないですけれども(笑)。ふわーっと外に広がるような、重くなく。比較的軽い、宙に浮いたような音にしました。地面に這うような、というよりは。霞むような。

 

ボヴェ:“……ひかりのどけき春の日にしづ心なく花のちるらむ”な風情でしたね。外は物凄まじい喧騒なのですが、ガラス越しの内部には音は一切入って来ませんので、確かにサイレント映画を見ているようでもありました。伊丹の町家公演の時は、外は見えないけれども営みが音として聞こえて来た。今回は逆に、凄い営みが見えるけれども音は聞こえない。そこにどういう音を添えてゆくかということで、アプローチもおのずと変わってきますよね。
 衣裳も非常にむつかしくてですね、完全な逆光で、シルエットとして見えるのであれば黒の衣裳も映えるのですけれども、逆光でありつつ開かれた空間ですので、床からのハレーションもあり、黒い衣裳だと印象がぼやけてしまう。そこで、そのハレーションを受け止めることの出来るくらいの明るさと彩度の衣裳であれば、やわらかな陰翳が出て良いのかなと思いまして、ちょっと冒険をして明るい藤紫を着てみました。「桜の花の精に見えました」というアンケートが幾つかありましたね(笑)。そんな感じでございまして、この時もハードルは高かったですけれども、その分得られる“新しい発見”(笑)が、ありましたね。

 

原:また、公演数がこれまでで一番多かったですよね。確か5公演でしたね。
 

ボヴェ:そうでした。しかも朝の11:00と14:00という、非常に健康的な催しでしたね。同じ日でも午前と午後で光の質感は違いますし、日付が変わればさらにニュアンスが変化します。そういった自然の表情の繊細な変化と、人々のさんざめく営みとが響き合う不思議な舞台になりましたね。
 

原:いろいろとバラエティーがありますね。凄く暗い夜から日中の公演まで。
 

ボヴェ:そうですね。最初は暗くて何も見えないところから徐々に馴染んで来て感覚が広がってゆくような空間もあれば、フワーッと明るい華やぎの中から静かな時間が生まれて来るような空間もある。確かにバラエティー豊かですね。空間と出会い、その空間を受け入れ、かつその空間がより豊かに息づくためには、何を削ぎ何を添えてゆけば良いのかという思いで取り組んでいますので、空間が変わればおのずとアプローチも変わるものなのですね。
 

場を整えるための時間(『Texture Regained─記憶の肌理─』アイホール,2008年)

ボヴェ:そして、ようやく今回の本題『Fragments─枕草子─』に辿り着きました。“枕”が長すぎましたね(笑)。さて、「枕草子」というのは言葉ですね。
 

原:新しい要素に入りますね。
 

ボヴェ:テキストという大きな要素が入ってきます。テキストに関しては、原さんと取り組んで来た作品とは別の流れがありますので、少しお話させていただきたいと思います。始めて本格的にテキストを取り入れた作品は、2008年に初演しました『Texture Regained─記憶の肌理─』です。
 

原:プルーストですね。
 

ボヴェ:はい。プルーストの「失われた時を求めて」を、今回も共演していただきます文学座の渋谷はるかさんに朗読していただき“言葉によって想起される空間と舞う”という趣向の作品になりました。

※下記ページより、公演後に細馬広道氏[滋賀県立大学教授]と行ったトークをお読みいただけます。 

こちら
 

原:その公演、観に行きましたけど、音楽が無くて。
 

ボヴェ:そうなのですよ。その事に気づいた方は少ないのですが、実は音楽は使っていないのですよ。
 

原:いつ音楽が来るのかなと思いながら観ていました。やっぱり音楽が無いと一種の忍耐力というのが必要になってくるのですが、覚えているのは、後半のボヴェさんが傘を持って出て来る辺りで、本当にね、幻ではないかと思うくらい、風景が一瞬ふわっと感覚として出たのを覚えていますよ。それまでは、音楽はどうなのかとか、このテキストは何なのだろうかとか、そういう色々なことを思考してしまったんですが、それが無くなって、本当にね、浜辺みたいな、そんな風景が浮かんだのを覚えていますよ。そこはやっぱり凄かったです。ただ、そこに至るまでの時間が必要で。そこまでの時間が……
 

ボヴェ:拷問(笑)。拷問に耐えた者のみが見出すことの出来る風景(笑)。
 

原:いやでもね。そこまでの時間が必要というのは、僕もよく思うのですよ。例えば自分のライブとかだと、30分~40分という大体の尺が決まっていて、そこで自分がやっている音楽を演奏する、プレイするんですけど、そうなると一番初めの話になりますが、何というのか、内容勝負というか、結局内容にフォーカスされる。もちろんそれは良いんですけれども、そうじゃなくて、60分位あるいはもっとの時間があった時に、その時間を経てしか得られないものが出て来るんですよ。それは60分もやらなければいけないという、やる側の必死の何かから生まれてくるのかもしれないし、お客さんも我慢してある一定の境地にいったのかもしれないですね。それはちょっとまだ分からないですけれども。その、必要な時間というのはありますよね。
 

ボヴェ:ありますね。それを私は、“場を整えるための時間”と捉えています。空間と観客の志向性がある意味で調和をしてゆく為の時間。あるいは、空間と作品に対してチューニングをしてゆく為の時間といいますか。舞が立ちあがってくるまでの時間を、凄く丁寧に紡いでゆく必要があると思うのですよね。場を整え、調和し、共鳴してゆくための時間はとても大切だと思っています。
 

原:それを、発見したというか。発見というより、本当に感じた公演でしたよ。
 

ボヴェ:それまでの作品の中でも相当にストイックかつヘビーな作品でしたね。音は一切無いですし。翻訳文のプルーストを延々と朗読しますから(笑)。
 

原:終わった後に音楽が聴こえて来たのですよね。
 

ボヴェ:ピアノの響きで、バッハの「平均律第2巻・ホ長調フーガ」が流れる(笑)。
 

原:あの天上感というか(笑)。一種の安堵感ですけれども。音楽の一つの聴き方だなと思いましたね。
 

言葉によって立ちあがる風景
 

原:テキストによって立ちあがる風景というのが、これまでボヴェさんと一緒にやってきた公演では無かったので、視覚的、物理的に存在している空間、そこに今度は渋谷さんの言葉から立ちあがる、少しイマジナルな空間が出てきますよね。
 

ボヴェ:言葉によって想起される風景にそって作品を描くということは、観る側のイマジネーションを信頼するしかないのですよね。言葉というのは物凄く要素も強いし、エネルギーも強い。音や舞とは別の次元で脳に作用する部分も大きいですから、舞台に言葉を受け入れてゆくというのは凄く難しいことでもあります。
 創作を始めた10代の頃は、解釈を逃れた領域で舞の可能性を探ってゆきたいという思いが強く、“意味からどうしたら逃れられるか”が私にとって大きなテーマでしたので、言葉は最大の敵でありました(笑)。しかし、徐々にそういう勇みも消えてまいりまして、言葉も舞も、音楽の構造も、空間も何もかも含めて、我々の感覚に訴えかけてくるものは何なのか、それを同じ土俵で見つめ直してみたいと思うようになって来たのですね。言葉と身体が響き合うとはどういうことか、それを探るためには、音や光にたよって展開させては駄目だと思い、あのようなヘビーな作品が生まれたのですよ。
 「失われた時を求めて」は、自分の意志とは関係なく、思いがけずに聞いた言葉や対象の質感が、深層の記憶に働きかけることで想起されるもの、そこに見出される時間や空間がテーマですので、この作品に正面から取り組む意義は大きいのではないかと思い、挑戦してみました。時間は円環し、現在という瞬間には過去も未来も同時に存在するというプルーストの世界観は、良質な舞台を観ている時に度々経験する、思いがけず物思いに耽ってしまう、まどろみの時間にも通じるものですので、そこに迫れるのでは、という思いもありました。当初は音楽を入れ、照明の変化も考えていましたが、プルーストの言葉と向き合う中で、音も無く照明もほとんど変わらないシンプルな構成の作品になってゆきました。

 

原:その思い切りは、ちょっとなかなか出来ないですよね。
 

ボヴェ:この経験を経て、言葉によって生まれる質感や空間の豊かな広がりに、より深く魅了されてゆくようになりました。その後、〈能〉との共演を重ねてゆくことになるのですが、〈能〉もビジュアル的な要素は削ぎ落とされ、謡と囃子が紡ぎだす切り詰められた繊細な“場”にシテが舞い、それをまなざす観客の想像の中に作品の趣を立ち上げてゆくという、非常にストイックな世界です。私は能が大好きで、少年時代から観ていましたけれども、御縁あって2010年に初めて能楽師の方々と共演させていただく機会を得ました。共演に際しては、〈能〉に無いものを新たに加えてゆくのではなく、現行の〈能〉の上演形態をさらに削ぎ落として、濃縮された〈能〉のエッセンスと私の舞が出会うことで生まれるものをまなざしてゆくというスタンスで、今までに三作の古典曲に取り組ませていただきました。今後も共演の試みを予定しております。
 

 

「枕草子」を舞う(『Fragments─枕草子─』国指定重要文化財・旧岡田家住宅,2012年)

ボヴェ:そのような経験を踏まえ「枕草子」に挑むことになったのですが、実はプルーストを考えていた時点で候補の一つとして上がっていました。プルーストの初演は2008年ですけれども、その一年位前から言葉を取り入れた舞台を考えておりまして、渋谷さんと様々なテキストで稽古を行っていました。その中で「枕草子」にも可能性を感じていたのです。しかし、古語ですし非常にハードルが高いと思いまして、その時はプルーストを選びました。そして時を経て、再び挑戦してみましょうということとなり、以前『陰翳』を上演した「旧岡田家住宅」(国指定重要文化財)にて、昨年(2012年)初演させていただきました。
 実際に上演してみますと、思っていた以上に言葉が通じたことに驚きました。「枕草子」は千年以上も前のテキストなのですよ。〈能〉よりもはるかに古い。むつかしいかなと思っていたのですけれども、公演を観に来て下さった方の中には、プルーストよりもむしろ言葉が入って来て、いろいろなものが見えたと言って下さる方もいらっしゃっいました。「枕草子」には、ものづくしの段など、現代の感覚でもすぐにイメージの広がる小段もあれば、宮中の行事や儀礼を描写した小段では、難解な用語が多くて想像しにくい部分もある。300段余りある小段の中から、自然への感興や、日常の繊細な営みへのまなざしといった、現代の感覚にも通じるような小段をピックアップし、構成しました。
 前回のプルーストではストイックな世界を突き詰めてゆきましたが、今回はもう少しやわらかなアプローチで、音の響きも添えて、言葉と共に変容してゆくようなあり方を模索しました。その変化は恐らく、創作の時期にもよるのだと思います。プルーストの初演は2008年ですから、原さんとの創作を始める前ですね。その頃の私は、まだ非常にストイックで純粋主義といいますか、ある意味でピューリストだったのですよね(笑)。まあ、徐々に歳月を経てそれが緩んできて、頽廃的になってきまして(笑)。ままよ、流れのままに、受け入れてゆきましょうと(笑)。

 

原:声が入るので。へたしたらすぐ安易になってしまうのでは、という思いがありました。ある程度の快感というのかな、音があってその上に朗読が入ると、すぐ手に入れられる快感というのはあるのですけど、それで良いのかどうかとか、いろいろ悩みましたね。あまり言葉と重ならないようにとか、音が出て消えて言葉が出てくるとか、言葉が出て少しだけ音が出て消えるとか、重なりを凄く気にしながら作りました。
 

ボヴェ:原さんは、私の舞台に関わっていただく前から、ボードレールの詩に音を重ねた作品を発表されるなど、朗読を取り入れた曲も手がけておられますよね。
 

原:フランスの凄く正統な朗読家の方とやりましたが、その時は先に朗読の録音があって、後から音楽を付ける形で作りました。そういう経験が少なからず反映されていたら嬉しいなと思いますね。「枕草子」の有名な小段は学校とかでいろいろ少年期に暗記させられたりとかするわけですけど、それが良くて、馴染み易い文章であったなと思いますね。それで、その時の事を思い出したという感想もあったかもしれないですけど、その時に得られなかった、辿り着けなかった風景があったとしたら、それがボヴェさんの公演で、少しでもそこに辿り着けたら素晴らしいなと思いました。
 

ボヴェ:良い話ですね(笑)。やはり古典は凄いですよ。時代を超えてしまっている。その時読んで気付かなかったことが、時を経て触れる事でハッと広がってゆくものもあるし、全然違う感覚になっていたりもする。その都度その都度かきたてられる何ものかがありますよね。千年の時の風雪に耐えてなお、人々に読み継がれているものですから。汲めども尽きせぬ魅力がある。
 

原:やはり、テキストの選び方とか良いなと思いますね。あの時代の他のテキストではなくて、「枕草子」を選ばれたのが。
 

ボヴェ:同時代に書かれた「源氏物語」は圧倒的に素晴らしいですけれども、「源氏物語」を舞うというのは、まあ相当大変な事ですよ。物語とどう向き合うかということになりますから。ある意味、プルーストに近い世界観を内包していると思いますが、舞台化するのは大変(笑)。しかし、それを見事に実現しているのが〈能〉ですね。「源氏物語」の長大な物語世界の記憶を、厳選した言葉を点綴することで観る者に重層的に想起させてゆく。本当に見事です。しかし、「源氏物語」に対する基礎教養がある程度ないと深く楽しめない側面もあります。その点「枕草子」はもっとシンプルですから。
 

原:「枕草子」はチョイスが出来る。
 

ボヴェ:「枕草子」は、折々の営みの中に潜んでいる、繊細で、ささやかな、かつ鮮烈な印象を、短い文章でパッと捉えてゆく。自然や人々の営みへの感興、驚きや喜び、哀しみ、慈しみが、感性に直接訴えかけてくる瑞々しい文章で書き綴られています。一つ一つの印象は、一瞬の、はかないものだけれども、それらが心の中に蓄積され、残っていて、日常の折々に、また再び違った場面で想起されたりする。そういった感覚は凄く良く分かりますよね。であればこそ、千年前に書かれた文章を我々が読んでハッとさせられるのだと思うのですよ。
 私は作品化するにあたって、「ただ過ぎに過ぐるもの 帆かけたる船 人の齢 春 夏 秋 冬」という小段を、作品の一つの通奏低音として据えてゆくことにしました。過ぎ去ってゆくものであり、かつまた廻ってくるもの。四季のように、年を重ねて廻り廻ってゆく。それが千年間続いて、千年後の我々にも廻って来て、そこに新たな驚きと発見、喜びが見出される。ある種の持続感、ある種の無常観なのかも知れないですけれども(笑)。何かそういうまなざしの中で「枕草子」につながり、つなげてゆけたら良いなと思っています。
 今回の再演の場となる三溪園「旧燈明寺本堂」は本当に素晴らしい空間で、建物は室町時代に建てられた古いお寺です。千年前の言葉が室町時代の建物の中で朗読され、現代に生きる我々がその世界に思いを馳せる。そんな場になればと夢を描いております。

 

原:前にやってから一年半経っていますけど、その間に僕もいろいろとボヴェさん以外の仕事で音に対して関わって、その中でもっと音を聴いたり、耳を澄ましたり、音を出すことを追求しておりまして、それを踏まえて今回また「枕草子」の朗読とボヴェさんの舞と場所と共に音を出すと言うのは、超単純に、楽しみです。前は室内で、そして夜だったですよね。今回は昼間の公演で、半野外の空間で、空間のタイプは全然違うのですけれども、そこでどういう音が合うのか、どういう変更点があって、どういうの音はそのままで良いのかと言うのは、楽しみでありながら、緊張感がありますね。
 

ボヴェ:三溪園という、非日常的な空間に足を踏み入れるだけで、ちょっと違う時間が流れてくると思うのですよ。「旧燈明寺本堂」は、借景の庭園の緑が床に映りこみ、風のそよぎも感じられる素晴らしい空間です。そこにどのような「枕草子」が立ちあがるのか、楽しみですね。公演の前後には、緑豊かな美しい庭園と歴史的建造物の数々をゆったりとご覧いただきながら、公演について思いを重ねていただいたり、千年前の「枕草子」の世界に思いを馳せてみたり、あるいは今の自分自身について振り返ってみたりと。いろいろなことに静かに思いを馳せる。そんな場になればと願っております。
 

原:良い季節ですよ。暑さも収まった頃で、気持ちよさそうですね。
 

ボヴェ:“秋きぬと目にはさやかに見えねども”
 

原:“風の音にぞおどろかれぬる”(笑)。
 

ボヴェ:本日は長時間ありがとうございました。
 

原:ありがとうございました。

(2013年8月 京都・北白川にて)

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原 摩利彦

京都大学教育学部卒業。複数のアルバムを国内外よりリリースし、

ダムタイプ高谷史郎演出作品『CHROMA』や

伊勢谷友介監督『セイジ』のサウンドトラックなどに参加。

音楽を担当した短編映画『コロンボス』は

クラクフ国際映画祭にてシルバードラゴン賞を受賞。

www.marihikohara.com

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